せいか

カッコーの巣の上でのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

カッコーの巣の上で(1975年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

(自分用雑記感想)
2021/08/15に清書したまとめをブログに投稿しました(https://to-the-kind-reader.hatenablog.jp/entry/2021/08/15/200305)。

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原作は現時点でもいまだに未読。読もう読もうと思って後回しにしている……。
Blu-ray版視聴。

『カッコーの巣の上で』を再視聴してるけど、やっぱり、婦長さんを悪役だとかなんかそういうふうに断じるのは無理があると思うんだよなあ(その確認のために観ている)。社会規範や世間の同調圧力、かくあるべきというラインを定めて自らは道徳的だ平等だと宣うそこらへんに山ほど転がってる一般人も否定することになるのよな。無関心や手は規定に則って尽くしているつもりになっているとか、危機においてその事件の渦中にある人物の弱みを突いて、正義の顔をして正常さと冷酷さをもって(例えば自殺へと)追い詰めてしまうようなところとか、かなり世間一般の悪い面も病院側や婦長さんは負っていると思う。
病院側は真面目に彼らの持つ現代科学(※電気療法も含めた治療全般)と秩序に則ってクソまじめに自分たちが持つ理想を抱えながら精神に難がある人々に対して事に当たっていて、そうした、相手への無理解と一方的な判断による処理といったクソまじめさゆえの腐敗なり形骸化の問題はあるんですが(箱の中に居る管理下の人々を統一的にしか見ないとか)、そこを見て悪役として捉えてるようにはあんまり見えなかったり、捉えてたとしてもそういうふうに見てるとしたらなんか違うよなと。
支配と冷酷な秩序の話よな。

※補足:再視聴のことの発端はネトフリのスピンオフドラマ『ラチェット』のニュースないし誰かのツイートだった。そこでさも彼女は悪である、このようにして悪になったのであるというような説明がなされていたことに疑問を持ったのである。さくっと再視聴したかったのだが、動画レンタルでさくっとできなかったため、数ヶ月を経てやっとこうして再視聴できた次第である。
どうやら『AFI's 100 Years...100 Heroes & Villains(https://en.m.wikipedia.org/wiki/AFI%27s_100_Years...100_Heroes_%26_Villains)』といったものでも悪役扱いされているようだが。

らんちき騒ぎの後にビリーが連行される中で混乱を招いた主人公を睨む婦長の眼差しの彼を咎め、静かに糾弾する目つきに詰まっているものが本作では好きだ。
それに、直後にビリーが死んだ際の混乱に乗じて今度こそ外へと逃げださなかった主人公の責任意識(なのかは分からないが)や、この状態になってもいつもの慣習にただ従わせることで混乱を沈めようとする婦長に飛びかかり、本気でその首を絞める彼の姿も好きだ。乱痴気騒ぎによる極端な混乱は彼が招いたものとはいえ、この一連の流れに本作のある種の美しさや対立構造が要約されているとも思う。

そうしたものを精神病院を舞台に描き、主人公はそこに現れる異分子として登場し、この秩序をかき回し、その問題点をさらけ出す(まずそもそも主人公は社会的にはれっきとした犯罪者だという前提もある)。でも病院側に仮託されている存在には妄言や混沌の種としか理解されず、最後にはその異質な部分が(病院側ないし社会の)悪として排除されてもはや反抗のできない、病院側にとっては理想的な、従順で意志薄弱な体と心にされてしまう。
彼が生み出すのは病院側からすればひたすらに混乱と害悪で、精神病院を一つの世界なり国なりとして捉えたら、その障害っぷりはなかなかでもある。(そしてもちろん、だからといって主人公を悪と見られるわけもない。)

最終的にこの巣から飛び立つのは、「俺にはできない」と意思が挫けていた、(社会に差別されてきた)ネイティブアメリカンのチーフだけなんだよなあ。彼はただ主人公の背中を追って事を完遂し、檻をぶち破って外の世界へと消えていく。そこは一つの変換点てはあるけど、未来は見えない。
彼は外の世界としっかり繋がりのあった主人公とはまた違い、行き先は不明瞭だ。自分の意志を変えた(=俺はできるへと)主人公は社会に魂を殺されて、そうなってしまった(が故にもはや何の反抗も、この病院からの脱出もできなくなった、ここで静かに余生を過ごすだけとなった)彼の肉体をまたチーフが殺し、主人公がかつて「持ち上げたものには奇跡が起こる」と豪語した噴水機を抱え上げ、大自然から始まったこの物語を締めくくるように大自然へと帰って行く。とにかくこのラストは寂しさがこびり付いていると思う。

魂が死んでしまった主人公をチーフ以外の他の患者たちは目にすることはなかったけれど、その死体とぶち破られた壁と逃げ出したチーフとを目の当たりにした彼らはどうなるのだろうなあと、答えのないところを考えてしまいもする。

あと、主人公が一度場からいなくなって(※捕獲されてロボトミーを受けている間)再びの平和が訪れても、彼がもたらしたトランプ賭博が残っている描写とかもよい。


病院は異常な世界ではあったけれど、ある意味、世間から外れた者たちを冷たい平等さで匿ってやる優しい世界でもあったのだよなあ。再三言うように問題はありはするのだけれど。


あと、書くところを逃していたが、エア野球観戦シーンは名場面だと思う。観させてもらえず何も映らないテレビを前に主人公が滔々と実況を始め、患者たちも集まって、驚き、聞き込み、一緒になって狂喜乱舞をするところ。虚しくも幸せな混沌シーンでもあったと思う。
オーディオコメンタリーいわく、撮影時期と物語舞台の時期には数十年の差があるのに、ジャック・ニコルソンは何を言われるでもなく当時の野球試合の細かなことや選手について覚えてきていたとか。それで実に巧みな実況をやってみせたという。

◇◇◇


オーディオコメンタリー付きも立て続けに視聴。メモを取ったり簡単な調べごとをしたりで6時間くらいかけて観ることになった。びっくりした(なお、本編も時間をかけて再視聴している)。

実際の精神病院を間借りして撮影に望んだらしい。
いくつかの精神病院にあたってみたが、かつてロボトミーや電気療法を当然のように行っていた時代が舞台なのでイメージ的によろしくないと断られ続けた経緯もあるらしい。
受け入れてくれた病院は1000床を備える大規模な所だが、撮影当時は2~3割が埋まっているだけだったので、一棟まるまる借りて自由に撮影させてもらえたという。

また、撮影にあたって院長に脚本に目を通してもらい、各患者たちはどういった病気にあたるかというところまで決めてもらったり、役者全員に1週間前には現地入りしてもらい、その病院の実際の患者にそれぞれの役者一人ひとりが患者一人に付き添ってその言動を吸収し、実際の精神病患者とはどういうものであるのかを実施で学んでもらったという(あくまで、その病状の観察ではなく、人間観察をするように指示したという)。実際の精神療法の場面にも立ち会わせたとか。本作では端から端まで役者たちの演技が自然というか、観ていて違和感が欠片も出てこないのは、そういった役へののめり込み方ともちろん演技のうまさによるものだったのだろう。
演技のためのバックヤードでの努力はひたすらこのオーディオコメンタリーで語られていたことなので書き出すとキリがないため、一部のみメモしておくに留める。

本作ではジャック・ニコルソン以外は低予算を理由として無名の役者が起用されている(カメラに映っているのは殆ど全員が役者で構成されているためアマチュアはいないが、院長役とチーフ役や医者など一部はアマチュアらしい。電気療法前の廊下のシーンなどは、主要人物の三人以外は全員、本物の職員と患者が出ているとか。また、院長役は実際にこの病院の院長が務めている。登場箇所も少なくないのに演技の違和感もなく、すごい。チーフはとにかく原作準拠の大柄なネイティブアメリカンの血筋の者を探すのに苦労した末に本業は画家の男が選ばれた)。これについては成功だったと語っている。いわく、ジャック・ニコルソンなら視聴者は分かるが、その彼が全く顔の知らない人々のいる世界へと飛び込むことで、二重に異質さを表現できたとかなんだとか。

監督などの一部スタッフは病院に泊まり込み観察を重ねて脚本を練ったとかで、とにかく、一つの作品を作り上げるにはどれだけ入念な下調べが完成品に活きてくるのかがしみじみと理解できる話が詰まっていた。
忙しかったジャック・ニコルソンを除き、彼の現場入りのころには既に役に浸りきっていた他の役者たちは相当不気味だったらしく、昼食時に訪れたジャックは見渡すなりこの場から飛び出し、この時にすら役に染まっている彼らを不気味に思ったというエピソードもあるらしい。

役者を選抜するに際しての監督たちの発言も面白かった。いわく、ジャック・ニコルソンが忙しかったからこそ逆に他の役者たちを選ぶ時間が取れたのだとか。

監督が映画を作るに当たって精神病院を訪問したときのエピソードも印象的で、いわく、自分は異常な世界が広がっているのを「期待」したけれど、そんな人は一人もいなかった。「誰もが必死に“普通さ”を装っていた」。

院長役の院長は主人公と初接触するシーンはほとんどアドリブで撮影させられたという。本番になってやっと、実際に刑務所で作成されたような書類で主人公の情報を渡され、そうしてある意味至極現実的な態度で撮影に臨んだとか。彼に望まれたのは、本物の患者に当たるときの態度そのものだったとか。なかなか聞いていてヒヤヒヤする話だった。しかめ、実際は20分もこのシーンは撮影していたらしい。

大柄なインディアン(ネイティブアメリカン)は珍しいらしく、みなせいぜい170センチ程度の身長で、この原作通りの設定に適う人物を探すのにも苦労したという。

主人公が噴水機を持ち上げようと必死になるも持ち上がらず、言い捨てるセリフの「でも努力はしたぜ」など、このセリフを含む一帯を監督たちは重視しているとのこと。特にこのセリフこそが中心のテーマなのだとか。噴水機とそれを持ち上げられなかった(=奇跡を起こせなかった主人公)というところは私も重視していたが、このセリフについては余韻を持って観ていなかったので、言われてみて、ああ、確かに!となっていた。
良いか悪いかはともかくも、あがきはしたけれど、最後、主人公は枕の下であがいて死ぬのだよなあ。切ないなあ。

発言メモ:
「最近の演技の悪い傾向なんだが おそらくテレビの影響だと思う 演技を重視するより── セリフ セリフ セリフというように── 会話で押す傾向だ 面白いのは人間の行動なのに── 行動が何もない 私はいつも役者たちに言っていた “ゆっくりでいい” 実生活で何かを話す時は── 言うことを前もって考えて練習したりはしない 考えながら 反応しながら話す そして多くの場合 話す言葉よりも── 顔の表情で多くが語られる 注目すべきは 相手役の表情だ これらのシーン(※円陣を組んでる療法シーン)ではそれが特に重要だった 顔の表情を読み取り合うことが大事だった」
「ミロスが言うように── 悪い原作から良い映画を作るのは── 難しくはない だが良い原作から良い映画を作るのは難しい すばらしい原作だと 観客の期待も大きい」(※話の核となる噴水機が登場するシーンにむけての発言)
「重要なセリフだ(※主人公を労働所に送り返すか否かを院内で話し合うシーンのところ)。“邪悪”とは 意識的であれ 無意識的であれ── “善意”から発する “救いたい”という善意 婦長役のキャスティングで決め手になったのは それだ(中略)(原作では婦長はいかにも悪役的な造形をされているが)だが 天使の顔の裏に潜む邪悪のほうが── 興味深い気がしてきた そのほうが── サスペンス感がある そして もっと恐ろしく感じられる 外見も 話し方も 行動も穏やかで── 他人を傷つけたりするとは思いもよらない人が── 邪悪だとしたら…… 私が思うに… 邪悪な婦長もそうだが 他人を傷つける行為に及ぶ人たちは── それが善意だと思い込んでる場合が多い 自分のやっていることは正しいのだと確信している」
   →ほんまそれなとオーディオコメンタリーを聞きながら、しみじみと思った箇所である。あくまでも婦長(ないし病院側)は自分たちは相手を救う立場にあると思って行動している驕った結果があれなのだから。
最初、婦長役の人は原作の厳格さのイメージとかけ離れていると感じたらしい。なんでも原作の婦長は邪悪と残忍さの権化のように描かれているとか(もしかして婦長を悪役と見る向きがあるのは、みんな原作の話をしているのか?!)。
「ジャックの(患者たちに言う)“なぜ出て行かない?”が── この映画の核心をついている 患者の半数以上は自主的に入院してた 彼らのほとんどが一点の“異常”を除けば── “健常”な我々と変わりないんだ “街を歩いてるバカどもと変わるもんか(※ジャックが患者たちに言うセリフで、「なのに信じられねえ……」と続く)”」
「鬼婦長のことは誰もが大嫌いだった 邪悪だからだ だが同時に彼女は愛されてた 他人思いの優しい女性だったから だが 彼女は嫌われてた つまり 善と悪は同時に存在し得るもので── 表裏一体なんだ」
「(四つのロケ地候補の病院を見学したが、)どこの病院にも鬼婦長がいた 必ずしも女性ではなく 男性の医師や用務員のことも(あった。)」
「“これはチェコの映画だ 私が20年を過ごした社会と同じ状況を描いている 私の人生そのものだ” だから 彼らの気持ちが分かる 我々は 生活しやすいように様々な制度を作る 金を払って それを維持してもらう だが結果として 我々が制度に制圧される こっちが金を払っているのに 私は原作に対してかなりの思い入れがあった ストーリーと登場人物の魅力以外にも このようなメッセージが込められているから」
「ラチェット婦長が印象的なのは 普遍性があるからだ どんな職場にもああいう人がいる 職場に君臨する女王 女性蔑視ではないが… ああいうキャラクターはあちこちにいるから “我が社のラチェット婦長”みたいな言い方をされる どこの職場にもかかわらず1人はいるものだ」
「あの鬼婦長が興味深いのは… 彼女は邪悪の象徴として描かれている だから 私も ソウルも マイケルも── 婦長役を演じる女優には 邪悪の権化のような── 強く残忍なイメージを求めていた そして実は── もちろん 同時にではないが イメージに合いそうな4人の女優に役をオファーした (※ここで話者変更)婦長役で面白かったのは 時代の表れだが 女優は 悪役を演じたがらなかった 女性運動が出始めたころだったが 当時 名を馳せていた5人のトップ女優が── 全員 断ってきた ミロスもソウルも僕も 信じられなかった 女性運動の観点からか 女優は悪役を敬遠した 男優であれば 悪役を演じることで── 名を成すことも多いのにね そこでミロスは── ロバート・アルトマンの映画で── 端役を演じるルイーズ・フレッチャーを見て── 僕らに“彼女はどうか”と ルイーズに初めて会った時から 私は少しずつ… 直感ではなく よくよく考えるうちに── 露骨な悪でないほうが強烈ではないかと思い始めた 彼女は自分が邪悪だとは気づかない むしろ 人を救ってるつもりだ とても穏やかで とても優しくて ある意味では 天使のような女性なんだ そのほうが怖い 婦長役の面接に来てもらった時に── “これだ”と思った 彼女を発掘できてよかった 主演女優賞の受賞はみんなで喜び合った 彼女を発掘したミロスにも感謝だ」
   →とにかく映画の婦長像の話は再三繰り返されていた。
「ゾンビにされてしまったジャックを見て チーフは “行くぞ”と言って殺す 役者たちは みんな 撮影に立ち会って ルイーズは泣いてたし 男どもも泣いてた」
「ウィルの最後のシーンは── 本当に胸を揺さぶられた 撮影するのは彼だけなのに── 全員が出勤してきた 野球観戦のようにみんなで取り囲んで ミロスが“OK”と言うと 大歓声が湧き起こった あの興奮は 今も忘れられない 撮影後 ミロスが “あまりに感動的だ あと1、2時間くれないか 観客のために この反応を1つのシーンに残したい 1、2時間でいい” 僕は“時間はいいから好きに撮ってくれ” それがこのシーンだ(※ラスト、ウィルが窓を突き破り、その音によって目覚めた患者が興奮して叫び、次々とほかの人々も目覚めていくところ) 最初にクリスを撮って 次に ベッドの他の連中も 最後のクリス(の興奮した様子)は最高だ まるでカタルシスのような いいシーンになった」

あと、主人公と院長が面接を行うシーンで語られていた、小説と脚本の違いの話も面白かった。読むものという前提がある小説ではその会話は自然なものとして成立していても、発話し演技する必要がある脚本の場合は、それをそのまま読むと不自然さが浮き出てくることがあるとかなんだとか。だから実際に声に出しながら脚本を書いたという。
舞台では見過ごされても、カメラの目を通すとその嘘くさい演技は暴かれるぞという話もよい。