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カッコーの巣の上でのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

カッコーの巣の上で(1975年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

何度も見てしまう映画である。
登場人物それぞれの立場に共感出来る。
それゆえに多角的な方向から見ることが出来るから、何度も見てしまうのだろう。

「自由」と「束縛」の対立という表面的なテーマがあるが、それ以上に「人の優しさ」とは何だろう?ということを、見るたびに考えさせられる映画である。

1963年のアメリカ、オレゴン州。
38歳のランドル・マクマーフィー(ジャック・ニコルソン)は5度の暴力事件、刑務所でも問題を起こし、精神鑑定を偽装して「肉体的にキツイ」強制労働のない精神病院にうつってきた。

しかし精神病院では、婦長のラチェッド(ルイーズ・フレッチャー)により厳格なルールが定められており、今度は「精神的にキツイ」刺激の無い質素な生活が待っていた。

マクマーフィーはそれに反発し、仲良くなった患者たちと反抗をするようになる。

鬱屈した生活を送る患者たちはマクマーフィーの奔放性に影響され、楽しい日々を過ごしていくが、マクマーフィーは精神病のふりをしているインディアンのチーフと精神病院から脱走を企む。

徐々に患者たちに情が移って来たマクマーフィーは、患者たちにも人生の楽しさを享受させようと婦長として婦長と対立する。

犯罪に近い行為を繰り返し、患者たちに外の世界の面白さなどを魅せていくのだが…。

この作品が心に響く大きな要因は、誰一人としていわゆる「悪人」が存在しないところだ。

管理主義の象徴のような婦長も職務を全うしているにすぎず、マクマーフィも自由すぎるだけであって、見捨てられていたチーフを平等に扱うなど、犯罪者ではあるが、優しさがあり、根っからの悪人ではない。

他のメンツも精神を病んではいるが、基本的に悪人ではない。
皆、精神病院に入っているからと言って本当に重度の精神障害があるわけではない。

日常生活に差しさわりがあるくらいに繊細で、普通に生きつづけて行くのが出来ないくらい弱者である人ばかりなのである。

つまり、この映画に描かれる精神病院内の人々の生活は、職場や学校、そして社会の縮図なのだ。

若い頃はマクマーフィーに多大な影響を受けた。
精神病院で権力に反抗する主人公マクマーフィーは、体制批判の中から生まれた自由の象徴として描かれている。

同時にそれは無知で欲望丸出しの若者の象徴だった。

そして若きジャック・ニコルソンの演技が輝いている。
彼の感情豊かで変幻自在の表情は、飾りがなく、演技か彼自身の本性か見分けが付かない。
彼が役になり切っているのか?
それとも役が彼に近いのか?
ニコルソン本人の性格はマクマーフィーそのものだと思えるほどに。

いわばマクマーフィは自由の権化で、規則なんてクソくらえの超自由人だ。
「やりたいことをやって何が悪い!」
その自由(差別意識の無さ)がチーフに対する優しさにつながっているのだが、反面やっぱり彼の常識は、その場の非常識であり、他人に迷惑なことは致し方ない。

もともと精神病院の患者たちの扱いは、人間の尊厳がどうとかよりも動物の飼育に近い実情だった。

本当は異常者(社会不適応の犯罪者)のマクマーフィーが立ち上がり、仲間を引き連れて病院の外に連れて行き、頼れる男の面を見せる。

統制された管理社会に暴力ではなく、一人一人を差別せずにに話しかける優しさを持っているマクマーフィー。

患者たちの心へ訴えかけながら、厳しい統制と戦って行くのが素晴らしい。

期せずして自由を知らない精神病院の患者たちの救世主となっていくのである。

(海外レビューでは、マクマーフィーはキリストの比喩だ、愛を迷える子羊に布教したと讃えるものもある。)

破天荒に暴れまわった彼は、最後には病院側にロボトミー手術で去勢され、廃人となる。
結末は「どんなにあがいても、無知な者には、管理社会は崩せない」という敗北感がアメリカンニューシネマらしい後味を残す。

この映画を初めて見た若い頃、学校社会に束縛を感じていた私は、この映画の中の患者たちと同じ、飼い慣らされた人間だった。

自由を謳歌し、管理社会と戦い、そして敗北するマクマーフィーの姿はヒーローのように私の目には映ったのだ。

重犯罪者であるマクマーフィーに憧れてしまうのは、俯瞰して客観的に物事を見れなかった私自身が「無知な若者」であったという証拠だ…。

マクマーフィーの年齢をはるかに超えた今では、彼の行動は「無知な若者の反抗」に見えてしまう。

反面、社会人として歳を重ねてから見ると、婦長の立場も理解できるようになった。

彼女を単に官僚的だとか、冷たいとだけ評するのは、浅はかな見方だろう。
相手の立場を考えず、悪役のレッテルを貼り、「そいつのせいだ!」糾弾すれば気が済むというのは、それこそ無知な者のすることだ。

婦長は非常に真面目に働いているに過ぎない。
彼女は彼女の熱意と愛を持って患者に接しているのだ。

もし彼女が精神病棟に自由をもたらしすぎてしまえば、そこは外の世界と変わりなくなってくる。

そうなってくると生き辛くなるのは患者自身なのである。
患者たちは弱すぎて「自由」に耐えられない人たちだ。

婦長のように、注意深く観察し、厳格な態度で、静かに自由を奪ってあげることこそが彼らのための優しさなのだと、感じるようになってきた。

BGMの音を落としてくれ、ワールドシリーズを見せてくれ、というマクマーフィーの要求に対応するシーンに代表されるように、婦長の言い分と患者全体のことを考えた判断は、常に正しいものである。

もし何かしらの救済がなされて、彼らが外でも生きていけるのであれば、婦長はあのような厳格さは見せる必要はない。

「管理社会は悪、自由こそ正義!」と歌っているように見えるが、その自由の価値が飽和状態になっているのがこの映画より後の時代の現在だ。

インターネット上の過激な書き込みや議論は、誰もが好き勝手なことを言い、論点がまとまらない、この精神病棟のミーティングと何ら変わらない。

過激な自由を歌うから、婦長のような厳格な束縛が必要なのだ❗️と、年齢を重ねた今の私は婦長に共感を感じる…。


マクマーフィーの「自由」と婦長の「束縛」の対立は、この映画製作当時の世相を反映している。
ヒッピー文化と保守派の対立であるが、私が歳を取って、この映画の見方が変わったように、もしかしたらジェネレーションギャップによる対立をも内包しているのかもしれない。


結局「自由」の象徴であるマクマーフィは「措置」という形になって、病院側の「管理社会」の大勝利かと思えば…

「自由」に優しくされたチーフという「束縛」された者が、マクマーフィーの意志に応え、新たな「自由」を求めて旅立つという結末。

自由と束縛のせめぎ合いの戦いは、チーフの逃亡により、永遠に続くことを意味していると私は思っている。

チーフは廃人となったマクマーフィーに枕を押し付けて窒息死させるのだが、それは真の意味でマクマーフィの魂を「自由」にしたのであり「尊厳死」の在り方の一つである。

マクマーフィーはあの姿のままで、生き続けることを望むはずがない。
ならば彼の魂だけを連れて行こう。
それがチーフなりの精一杯の「優しさ」だったのだろう。

そして新たな自由の闘士が生まれ、病院よりは、自由な環境に開放される。

しかし行き着く先でもチーフはインディアンゆえに偏見という社会的束縛と戦うことになるのだ。

恐らく自由と束縛の戦いが永遠に繰り返されることを暗喩しているため、この映画はいつ見ても色褪せない。

友情によって「魂が受け継がれること」、マクマーフィーのしてきた「戦いは無駄ではかったこと」に、私は今見ても感動する。

それは人間が足掻いた末に、何か大切なものを生み出し、次の世代の人間へと受け継がれる清い遺産だ。

その大切なものが、もしかしたら「優しさ」なのかもしれない。
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