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香も高きケンタッキーのShuのレビュー・感想・評価

香も高きケンタッキー(1925年製作の映画)
4.1
 馬映画である。と同時に、人間の物語でもある。
 この馬と人間の関係がもっともよく現れているシーンが、交差点でのフューチャーとの再会である。馬であるフューチャーは主人に触られたことでそれに気づき、蹄を鳴らして注意を喚起するが、主人は気づかない。フューチャーはやむを得ずそのまま進まなければならない。このシーンが感動的なのは、この映画の序盤で生まれたばかりのフューチャーをなでる主人のカットが印象的に挿入されていたからであり、さらにそれを遡れば、馬の世話係の(そして将来は警察官、sergentになる)男が、主人が友人たちを招いた夕食会にみすぼらしい格好のまま入り、馬の赤ちゃんが生まれたことを告げたときの主人の喜びと、夕食会に似つかわしくない男との固い握手によって、主人が世俗的で表層的な社交や名誉などよりも馬を純粋に愛する人物であり、絆も馬の世話係と結ばれることをこれ以上ないほど鮮明に示していたからである。この鮮明さは、主人が出ていった後に残された夫人とその愛人の無関心さが明らかにする虚栄心との対比によってよりはっきりとする。
 この馬を触ることによる過去の豊かなイメージの喚起によって、フューチャーと主人が似たような境遇を経てきたこともまた同時に思い出される。すなわち娘との離別である。
 そうだとすれば、主人が娘に再会するのであればフューチャーも娘と再会できるのは道理であるとしか言えまい。
 ところで、フューチャーを取り戻すシーンはチャップリンを思い出さずにはいられない。フォードがチャップリンを観ていたことは間違いないと思うが、どれほどの影響を受けていたかは定かではない。似たような乱闘シーンは後に「静かなる男」でも登場するが、「静かなる男」の乱闘は全くチャップリンには似ていないのである。従って、どこかでチャップリン的乱闘イメージからの離脱があったはずである。とはいえ、乱闘シーンの最後の演出をみれば、チャップリンとは異なりそれが既にフォードの映画になっていることを我々は確認するであろう。
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