われわれは多かれ少なかれ、身体を通じて世界との直接的な繋がりや共感を感じている。見えるもの、聞こえるもの、触れるものといった「私の」感覚という自己性や「親しさの感じ」を媒介にして、世界や他者と連絡し、>>続きを読む
ニーチェによれば、キリスト教道徳は強い力を持つ支配者を妬み、それに復讐しようとする弱者のルサンチマン(ressentiment)に基づく奴隷道徳である。そこでは強者の逞しい自己肯定や勇敢さは否定され、>>続きを読む
別れた妻に小説を捧げたエドワードの狙いは復讐か、あるいは愛別離苦の悲しみかといった二者択一な解釈を求めるよりも、シュレディンガーの猫のように相反する結末の可能性が1:1に重なり合っていることを受容する>>続きを読む
「結婚」というモチーフに「呪い」という言葉を重ねていることから察するに、極点で狂気に転じる物語の着地は2人だけの愛の形などというものではなく、ミザリー型支配と諦観の交錯した悲喜劇であり、同時に屈折した>>続きを読む
「探しもの(大切ななにか)はすぐ近くにある」という『リメンバー・ミー』へと繋がるテーマのリレーは結構だが、「オラフが伝統」というこのお話の着地は、先で示したテーマの明確さとは対蹠的に意味するところがい>>続きを読む
幼き日のデル・トロ監督が夢想した、もし『大アマゾンの半魚人』が最後に殺されることなくヒロインと結ばれていたら?を実現させたこの映画は、アメリカに侵略される南米を象徴させた半魚人をはじめ、口がきけない障>>続きを読む
他者への共感性の低さや、状況に即した態度を取れない人を指して、やれパーソナル障害だ、サイコパスだと紙面を賑わす世の中だが、しかし人と人は本当に理解し分かり合えるものなのだろうか。韓国には「泣き屋」なる>>続きを読む
クストリッツァ作品の微に入り細を穿とうと挑むたびに、其処此処に匂い立つガルシア=マルケス作品との関連性に思い至る。単にクストリッツァが影響を受けたものとして片付けたくないのは、両者が自国の内乱の歴史へ>>続きを読む
SAWっぽい感じを演出することに熱心なあまり、フレッシュなアイディアを著しく欠いた退屈な作品。
シリーズのお家芸としてラストにビッグサプライズが控えていることは自明なのだから、例えば、観客の予想した>>続きを読む
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれ、画が出>>続きを読む
ジェットコースター的快感を味わえる作品であることは間違い無いが、善悪の価値観が一方的で、それ故にドラマ性も希薄。
バス会社の常務なる記号的なワルモノがせっせと次の展開を支度することでしか場面が移って>>続きを読む
なぜメルヴィンは「突然」正義に目覚めたのだろうか。いじめられていたことが悪に立ち向かう原動力になったという見方もできないではないが、それならば「いじめっ子に復讐することでかつての弱かった自分を乗り越え>>続きを読む
時代や地域の異なる文化間に共通の要素を見出したレヴィ=ストロースの構造主義以来、映画を含め、人間文化のあらゆる要素は記号体系を構成しており、それらを支配する統一的な法則があると考えられてきた。
ウラ>>続きを読む
男子が母親に性愛感情を持つと同時に父親に対して対抗心を抱く心的状況を、フロイトは父を殺し母と結婚したギリシア悲劇『オイディプス』(エディプス王)になぞらえてエディプス・コンプレックスと呼んだ。他方女子>>続きを読む
去年の薔薇は丸く小さく、死んだ睾丸のようであった。かぼそく風に揺れる枝頭にあって、乾き果てた花弁が時折灰のように崩れるために、崩れた残りの花弁はジグザグの縁をしていた。
羽黒はその花弁に手>>続きを読む
モーターがイカれて故障を繰り返す船に象徴される、行き詰まりや先に進めない焦燥感はそのままリーの置かれた状況を示しているかのようである。「手離すしかないんだ」と繰り返す彼の言葉は、翻って彼自身の因果やト>>続きを読む
ソファーから体を垂れ、首から血を流す少女と、それを上目遣いで睨みカメラを構える男。この男の睨み方はキューブリック凝視(Kubrick stare)と呼ばれるもので、その名の通りキューブリックが好んで使>>続きを読む
映画とは覚めると分かって見る夢のようである。A・ホドロフスキーは『ホーリーマウンテン』を以下のように締めくくる。
「これは映画だ。私たちにはすることがある。君たちは現実にかえりたまえ。」
ラブマシ>>続きを読む
人々が突然歌い、踊り出す。
それはミュージカル映画が生来備えた特徴であるが、付帯的に虚構性が提示されるために、所詮現実から乖離した夢物語であり、スタジオは夢工場であると揶揄されていた歴史がハリウッド>>続きを読む
インフォームド・コンセント(説明と同意)を理解する場合、一般に「パターナリズムから自己決定へ」という仕方で問いが立てられる。パターナリズムとは「当人の利益の為に、当人の代わりに意思決定をする」という意>>続きを読む
人が人を正しく裁くことはできるのだろうか。
私刑と死刑の対比と冤罪はこれを端的に問いかけるものだ。強調する形で裁判員裁判を俎上に載せ、職業裁判官をも獲物にすることで司法権の行使という名分を超えた「人>>続きを読む
1.蜘蛛について
夢に見るイメージにはその源泉となるアーキタイプ(元型)が存在すると提唱するユングの夢分析に於いて「蜘蛛」は「グレートマザー(太母)」のひとつに数えられている。
”あらゆる物を育て>>続きを読む
カイエ・デュ・シネマの創刊者にして、”ヌーヴェルヴァーグの精神的父”と称されるアンドレ・バザンは《写真映像の存在論》のなかで以下のように述べている
もし造形芸術に精神分析を適用したならば、死>>続きを読む
ボヴァリズムという言葉がある。
ダニエル・ペナック『奔放な読書』のなかでは「小説に書いてあることに染まりやすい病気」と幾分簡略的に用いられているが、本来の定義は「不可能な幸福を夢見ながら自分自身の実>>続きを読む
今作を観てロドリゴ・アラガオ監督(兼脚本)が恋愛、それも冴えない男の片思いを描く映像作家であることを確信した。
彼の作家性が顕著に現れた処女作「デス・マングローブ ゾンビ沼」では跋扈するゾンビの群れ>>続きを読む
途中から「スペースバンパイア」が始まるもマチルダ・メイの姿は確認できず。ダン・オバノンのクレジットもなし。つまんなかった。
このレビューはネタバレを含みます
ここでは「俺があいつで、あいつが俺で?!」モノと呼ぶことにしたい。
結論から言うと素晴らしい映画だった。
もはや手垢がつきまくった題材にも関わらずゲンナリすることなく見せられてしまったのは、無駄の>>続きを読む
人間の目は限られた光しか捉えることができない。光というものの全体のなかで可視光線はごく一部であり、多くを占めるのは赤外線や紫外線、γ線などの不可視光線である。
対世界と人間の認識の関係性において聴覚>>続きを読む
フロイトによれば人間の行動の決定には「エス(es、id)」「自我(ego)」「超自我(super ego)」の三層からなる精神構造の相互作用が深く関わっているという。
エスは「〜がしたい」という快楽>>続きを読む
ここにペンがある。
ペンは文字を書く為という目的(本質)が先にあり、そこから人の手によって作られることで存在する(実存)。しかし人間はそういった道具と違い実存が先立つ。従って本質は自分の手で選びとっ>>続きを読む
吹き抜ける青空のもと、どこか緊迫感に欠けたパンデミックが展開されるこの映画を通じてシャマランはなにを伝えようとしたのだろうか。
人類は地球にとって害だから間引いた方がいい。
この惑星の未来を憂う終>>続きを読む
1人、また1人と現れては退場していく男たちの悲しきボディカウントムービーとしても魅力的なこの映画
白眉はトミー谷の"リザにしか見えないが確かにいる"という設定
特定の対象にしか見えない空想上の人物>>続きを読む