ベルリンからアウシュビッツ=ビルケナウへ向かうまでの列車内を舞台にした、ドイツ産ホロコースト映画の隠れた名作である。
列車といってもこれは普通の列車ではない、家畜運搬車である。(この移送列車をは>>続きを読む
このレビューはネタバレを含みます
文学や映画などの表現形式のなかで「母殺し」を扱った作品がいくつかあるが、その系譜はどのあたりまで遡れるのだろうか。
映画で真っ先に思い浮かぶのが『田園に死す』である。主人公である「私」が、ひょん>>続きを読む
「生前の不幸の数々は、
お傍近う参って御詫び申し上げとう存じます」(本編より)
十平次(林長二郎)には三人の女がある。
母と妹と、太夫の三人である。
三人の女との別れが、雪につれてひとつずつ>>続きを読む
座頭市の脚本を書いた犬塚稔の監督作の中で、唯一の現存作といっていい作品であり、又、長谷川一夫が林長二郎と名乗っていたころの数少ない現存作でもある、戦前の松竹・下加茂産時代劇、冬島泰三の脚本である。冬>>続きを読む
アレックス・マンが刑事の役をやっている。変態の刑事である。
偶然通りかかった邸が二人組強盗に襲撃されている。マンさんは犯人の一人シン・フイオンを取り逃がし、腕に銃創を負って病院送りとなったのだが、>>続きを読む
「『あしたのジョー』では丈と力石徹の対決のなかに、さまざまの比喩を投げこみ四角いジャングルのなかに六九年から七〇年へかけての闘争的な時代感情を反映してみせるわけだが、丈と片目の丹下と少年院上りのセコン>>続きを読む
「知らんのか。お前の過去はもう調べ済みだ。
怪しい点がある。ゲイってだけじゃない。ワイロの前科もあるようだ」
というのが、ブルース・ダーンの部下に対する見識の全貌である。
このモジャモジャ>>続きを読む
太平洋戦争末期に溝口健二が撮った時代劇の珍作であり、画面の隅々にまで充満するやる気ない感、気乗りしない感、嫌々やってる感三位一体のネガティブオーラ大感謝祭の合間合間に、ここぞ正念場とばかりに褌を締め>>続きを読む
日中動乱・文化革命にのまれて、戦前から戦後へ転がり落ちるように零落していく二人の京劇役者の人生を、甘美に・頽廃的に炙り出す、まるで叙事詩のような、歴史の深いうねりを感じさせて呉れる映画であり、ある意>>続きを読む
本作で黒スーツ・リーゼントの気障すぎる殺し屋を演じている吉田輝雄は、私のお気に入りの俳優である。
彼は今回も色んなことを仕出かして呉れているが、例えば、高倉健と対決中なのに、終始、拳銃の汚れを気>>続きを読む
金城武演じる唖の青年モウとエージェントの女ミシェルの二人が出会う場面は、映画のなかでたった二度しかない。
青年は安ホテルの管理人の息子で、女はそこの宿泊客。
青年は警察に追われている。
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私が本作を愛してやまない理由のひとつは、岡田時彦が出演している数少ない現存作のひとつだからである(私の知る限り彼の作品は、断片を含め、七本しか現存していない。すべてサイレントである)。
そもそも無>>続きを読む
ギレンホールが我々の前に現れたとき、彼はまだ一介の窃盗犯に過ぎなかった。彼にとって、社会的行為とはただ「他人の物を売る」ことでしかなかった。それが、一躍、カメラマンとしての成功を掴み取るに至る。何が>>続きを読む
特撮ヒーローもののなかでも黎明期にあたるこの映画が、今尚エキセントリックであるのには理由がある。ヒーローが骸骨なのである。そんなヒーローに助けられたい人がいるだろうか、というのが大衆側の率直な代弁で>>続きを読む
高倉健がブルータルなごろつきを演じている貴重な映画である。後年の網走シリーズで見られる一連のパンキッシュ高倉ムービーのプロトタイプのひとつであるが、それらと本作が決定的に違うのは、おふざけがまったく>>続きを読む
これは火星人の映画である。地球人が現在鑑賞しても到底理解できるとは思われないほど、あんまりクレイジーな映画であるからだ。しかし同時に、これは主演のイザベル・アジャーニの映画でもある。兎に角、この女の>>続きを読む
これまでこだわっていた同性愛を封印した分、母と息子の関係により繊細に迫っているところが、処女作『マイ・マザー』との一番の違いである。
テーマ性と云い、母親と女教師の役を同じ役者に演じさせていること>>続きを読む