ビデオドロームは未来を予見する時間的価値という機能を備えている。クローネンバーグが取り組んでいるのは、誰もが潜在的に抱えている予感をどのように可視化するかという問題に他ならない。つまり、クローネンバー>>続きを読む
脚のない鳥は立ち止まることができず、飛び続けるしかない。現在地や目的地といった相対的な感覚はおろか、安住の地もない。景色は通り過ぎ、他者とはすれ違う。行くあてもなく飛び続けている鳥には未来がない。夢や>>続きを読む
一つの映画として見れば、いささか凡庸かもしれないが、ウォン・カーウァイのフィルモグラフィーの中で見ると、ピカピカと輝いている。チンピラが1人と大筋が二つ、そして、何よりもウォン・カーウァイの刻印が三つ>>続きを読む
映画とは運動と時間の芸術である。リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」にもショットはまぎれもなく存在していた。ワン・ショットでありながら「ラ・シオタ駅への列車の到着」にせよ「工場の出口」にせよ、すでに運>>続きを読む
結婚をめぐるドタバタ騒ぎのコメディーに旧ユーゴスラビアの内紛を取り巻くソ連とアメリカの外交が透かし模様になって描かれている。明らかに芸術的な性格が現実の混乱を止揚し、一種の美的な合理化が起きて、歴史的>>続きを読む
人は本当に思っていることが言えない。核心を伝え合うことができないまま、核心の周りを旋回し続ける。しかし、意に反して「かお」は語り出す。それは、当人の内的な事態を反映するかのように視線や表情として「かお>>続きを読む
その題材をどの程度自分のものにして、画面を現在の体験へと引き継いでいるかということが映画監督たちにとって重要なことのような気がする。その意味では、この伝記映画に用意された高揚は、絵画的な記憶を刺激する>>続きを読む
映画とは運動と時間の芸術である。私たちは画面に生成する人間の運動の持続によって映画という時間体験を知覚するのかもしれない。誰もいないイタリアの街は時間が止まったかのようだった。
──即興──演者自身が「今この場」の反応を起こすもの。その場で起きた反応によってニュアンスを帯びて、自由に発展していくもの。映画を手玉にとるような撮り方が途方もなく魅力だった。
──抽象的な構図──そ>>続きを読む
カメラによって撮られた映像は、日常的にはありえない凝視を人に許す。とりわけ「フェイシズ」は恐ろしい。被写体のかおを隈なく見尽くし、魂を覗き込むことも許してしまう。
ジョン・カサヴェテスはカメラの前で起こっていることを、事件として、構図にこだわらずフィルムに収めてゆき、それからこぼれ落ちそうになるものをすくい上げてゆく。被写体にカメラ(仮借のない吟味の機械)を向け>>続きを読む
北野武の刻印とも言えるヴァイオレンスがフィルムのフィクション的な持続を乱している。北野武にあっては暴力沙汰はすべて突発的に起こり、それを導きだすサスペンスも不在である。ごく普通に撮られているはずのショ>>続きを読む
オフュルスにおける動きにみちた長いショットの流麗さがたえず動いている男女の位置関係をことさら艶やかに見る者に印象づける。だが、彼にはまた卓抜な演出能力も備わっていたことは明らかだろう。例えば、愛しあっ>>続きを読む
映画は、現実の世界をレンズを通じて撮影することで成り立っている。世界を客観的に撮影することしかできず、写された映像は真実である。しかしながら、そこから映画の最大の問題が生み出される。映画は一部しか見て>>続きを読む
映画と記憶は無関係ではいられない。たった一本の作品でさえ、見ているはしから見る主体の視線を無効にしながら、かなたへと逃れさってゆくものだから、それについて充分に語れるはずもない。見るはしから忘れてしま>>続きを読む
映画とは時間との闘いである。時間をどのように自分のほうへ引き寄せ、同時に、引き寄せた時間がことによったら自分から離れていくかもしれないという危惧もあるところに、映画の困難があり、同時に映画の魅力がある>>続きを読む
舞台を見るというのは同じ空間を占有するわけで、それはどこかで見世物になる。この映画で重要なのは、そういう見世物性を自覚しているということだと思う。演劇の見世物性を自覚した態度とコメディがこの上なく有効>>続きを読む
映画的感動を凡庸に薄めて引きのばしたといったたぐいの退屈さを感じてしまった。
「エリザベート 1878」は内面をどのように視覚化するかという問題を扱う映画である。言い換えれば、エリザベートが抱えている内面──意識、心理、悩み──を画面に映し出そうとする映画と言える。厳格な構図の>>続きを読む
純粋な美形と運動感覚みたいなものが分かち難く結び付いて画面に定着している。籠の中の鳥、しかも、美しい鳥が羽を羽ばたかせて自由闊達な運動をしているわけだから、瞳を惹きつけないはずがない。
サスペンスフルな題材を扱いながら、作品として真のサスペンスではない。本来ならサスペンスであるべき題材をサスペンスでないほうに持っていくという優れた腕も持っている。
映画というのは、複製技術のうえに成立している。言ってみれば、複製の対象にカメラ(仮借のない吟味の機械)を向けることで画面に生成する運動の生なましさをいかにとらえるかを至高の目的として自らに課する。それ>>続きを読む
これは運動そのもののかなたに、存在する時間イメージを表象した映画だ。カチンコに書かれる数字、入れ物の中で溶けていく氷、灰皿に溜まっていく吸い殻、飲み干されていくウィスキーが時間を表象しているからである>>続きを読む
これは見えているものと聞こえているものの関係を明らかにする実験的な映画である。この実験の成果のひとつとして「耳は眼よりもずっと創造的である」というブレッソンの「シネマトグラフ覚書」の証明がある。見えて>>続きを読む
作家主義── 全ての映画に紛れもない刻印を打つ映画監督こそが「作家」の名に値する。この映画にもまたスコセッシの深い刻印が打たれている。ハッとする瞬間、ハッとする画面も描かれているが、やはり、その刻印は>>続きを読む
カメラ=万年筆──映画監督は作家が万年筆で文章を書くように、カメラによって世界を映し出さなければならない。ユスターシュがカメラによって世界を映し出そうとする試みが「ぺサックの薔薇の乙女」と「ぺサックの>>続きを読む
「ぺサックの薔薇の乙女」「ぺサックの薔薇の乙女79」は映画の歴史的な変遷の過程で、いかなる瞬間に「歴史」としての映画が露呈されているのかを確かめておくための試みだと思う。記録映画に徹することによって、>>続きを読む
あらゆる映画はある程度フィクションであり、ある程度ドキュメンタリーでもある。純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない。そうユスターシュが断じているようだ。それでいて、見ることについて>>続きを読む
キャメラの前で起こっていることを、事件として、フィルムに収めてゆき、輪郭が何かを確定するのではなく、それからこぼれ落ちそうになるものをすくい上げてゆく。ユスターシュとバルジョルが構えたキャメラの前で起>>続きを読む
映画は、人間が捏造した途方もないフィクションの装置にほかならず、その錯覚を享受する体験の「現実」性は間違いなく問えても、とうてい普遍的な「現実」には分類しえないまがいものでしかない。ヒッチコックは、こ>>続きを読む
理解癖──人々の住む世界は、筋道が立っておらず、矛盾だらけで、理解し難いのに──理解癖は「映画≒夢」という事実を拒もうとする。造形美よりも機能美を探求する。たとえ、それがなまじの映画でなくても。
これは仮借のない吟味の機械(カメラ)を通して、母のはらわたを聞こうとする個人的な試みのようである。この個人映画が多くの人に受け入れられるのは、見る主体がシャルロットで見られる被写体がジェーンだからであ>>続きを読む
この映画の最も優れたところは、仮面の中だけで再生される映像を見て、身体を震わせるアクションである。これは仮面ライダーの特権の行使であり、それでいて、映画館の暗闇で映画を見る観客の分身であるからだ。
映画史にはゴダール以前とゴダール以後が存在する。ゴダールの出現は映画史に決定的な亀裂を刻んだ。「勝手にしやがれ」に映画の革命があると確信した者でさえ、彼の創造と破壊、芸術と政治を行き来する人生を見なけ>>続きを読む
ウェス・アンダーソンにとっての「映画(演劇)」とは一種の催眠の力を借りて、我々が一緒に見る夢である。この夢とは、現実とは異なる空間という意味である。そして、その空間は大衆的な見世物に立ち会わせる場とし>>続きを読む
エモーションこそが我々の唯一の導き手でなくてはならない。しかし、センチメンタリズムは注意深く避けなければならない。声高に感情を語ることが悪いとは言えないけれど、映像を主義や思想の道具に貶めてはいけない>>続きを読む