「ぺサックの薔薇の乙女」「ぺサックの薔薇の乙女79」は映画の歴史的な変遷の過程で、いかなる瞬間に「歴史」としての映画が露呈されているのかを確かめておくための試みだと思う。記録映画に徹することによって、>>続きを読む
あらゆる映画はある程度フィクションであり、ある程度ドキュメンタリーでもある。純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない。そうユスターシュが断じているようだ。それでいて、見ることについて>>続きを読む
キャメラの前で起こっていることを、事件として、フィルムに収めてゆき、輪郭が何かを確定するのではなく、それからこぼれ落ちそうになるものをすくい上げてゆく。ユスターシュとバルジョルが構えたキャメラの前で起>>続きを読む
映画は、人間が捏造した途方もないフィクションの装置にほかならず、その錯覚を享受する体験の「現実」性は間違いなく問えても、とうてい普遍的な「現実」には分類しえないまがいものでしかない。ヒッチコックは、こ>>続きを読む
理解癖──人々の住む世界は、筋道が立っておらず、矛盾だらけで、理解し難いのに──理解癖は「映画≒夢」という事実を拒もうとする。造形美よりも機能美を探求する。たとえ、それがなまじの映画でなくても。
これは仮借のない吟味の機械(カメラ)を通して、母のはらわたを聞こうとする個人的な試みのようである。この個人映画が多くの人に受け入れられるのは、見る主体がシャルロットで見られる被写体がジェーンだからであ>>続きを読む
この映画の最も優れたところは、仮面の中だけで再生される映像を見て、身体を震わせるアクションである。これは仮面ライダーの特権の行使であり、それでいて、映画館の暗闇で映画を見る観客の分身であるからだ。
映画史にはゴダール以前とゴダール以後が存在する。ゴダールの出現は映画史に決定的な亀裂を刻んだ。「勝手にしやがれ」に映画の革命があると確信した者でさえ、彼の創造と破壊、芸術と政治を行き来する人生を見なけ>>続きを読む
ウェス・アンダーソンにとっての「映画(演劇)」とは一種の催眠の力を借りて、我々が一緒に見る夢である。この夢とは、現実とは異なる空間という意味である。そして、その空間は大衆的な見世物に立ち会わせる場とし>>続きを読む
エモーションこそが我々の唯一の導き手でなくてはならない。しかし、センチメンタリズムは注意深く避けなければならない。声高に感情を語ることが悪いとは言えないけれど、映像を主義や思想の道具に貶めてはいけない>>続きを読む
──即興──アドリブとは全くの別もの。演者自身が「今この場」の反応を起こすもの。その場で起きた反応によってニュアンスを帯びて、自由に発展していくもの。
──作家主義──透かし模様になった作家の紋章が読み取れるもの。芸術的創作品の中に個人的な刻印を打ち、そこその永続性と一作品から次の作品への進歩さえも仮定するもの。一方で、この格子の外にある優秀な作品を>>続きを読む
人間の真実を人物の内部からとらえるのではなく、人物の外部からとらえようとする。顔の上、顔の一要素の上、顔貌化されたオブジェの上になされるクローズ・アップは、未来を予見する時間的な価値をもっている。その>>続きを読む
ジョン・カサヴェテスににとっての編集とは、粗い演技をスムーズで流れるものに変えてしまうもの。風変わりな筆跡で書かれた対話を、速記のように短くて瞬間的なものへと変えてしまうもの。面白い方向へと不規則に広>>続きを読む
この映画に登場する人物たちは、恋愛感情をもとにして運動しているように見えるけれども、恋愛を目的とした映画ではないように見える。むしろ、この映画は、その原題が示しているように、獨りで立つことを選択するこ>>続きを読む
空間的深さ。見る者を安心させたり、画面の中から自分の見るべきものを選ぶための手段を委ねたりたりするもの。パパラッツィの撮る写真に存在しないもの。彼らの構える望遠レンズが物欲しげにしているもの。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの手に危険ですごい武器ひとつ。── 即興──それは何の苦もなく生まれたように見えるもの。それは物語を超えて映画を震わせるもの。それは映画の中にもう一つの現実を立ち上がらせ>>続きを読む
美は様々な結び付きで出来ている。その魅力は、形而上学的で独自な真実から引き出される。その場合、真実とは均衡、不均衡、びっこ、不釣り合い、飛躍、休止、蛇行、それに直線などの積み重ねで表現されるが、そこで>>続きを読む
この映画のヌーヴェル・ヴァーグ的な性格は映像よりも「言葉」に支えられている。映画的環境での引用という仕草は、いくらでも対象を操作しうる恣意的な運動であるかにみえて、じつはいささかも恣意的ではありえない>>続きを読む
「私が映画で気づいたのは、当初の予定とほぼつねに正反対のことをしても、結局、やはり最初に想像していた通りの仕上がりになるということなんだ」つまり、これは── 即興──「ああ、これは作り物ではなく、本物>>続きを読む
理解癖──人々の住む世界は、筋道が立っておらず、矛盾だらけで、理解し難いのに──理解癖は「映画≒夢」という事実を拒もうとする。ジャック・ロジエの素晴らしい非論理性と、この映画の自由闊達な画面連鎖のもた>>続きを読む
この映画を見ている時の「映画を見ている」という感興は「映画≒夢」という事実によって支えられている。映画とは誰かの語るではなく、一種の催眠の力を借りて、我々が一緒に見る夢である。ここで言う夢は、夢の素晴>>続きを読む
ショット──あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない」もの──ここには、視線を惑わせたり、瞳を惹きつけたりするショットだけが刻み付けられている。
ここにはユスターシュが明らかにした映画的真実「観察」と「模倣」がある。この映画の主人公(若き日のユスターシュ)は話すことよりも見ることを選択するが、ただの観察者に留まっている訳ではない。彼は観察者であ>>続きを読む
全ての映画は個人に向けられた救いを目的としているわけではないはずだから、もしかすると、この「個人映画」も積極的に何でもないものであるのかもしれぬ。しかし、この映画が呟く「個人」は、緊張し緩和する「映画>>続きを読む
この映画は、低層階の一室と思しき場所から人物の頭上を捉えるショットから始まるのだが、これが実にヌーヴェル・ヴァーグ的である。この自由闊達なショットは、私たちにカメラの後ろを想像させる。スクリーンに含ま>>続きを読む
この映画が呟く「個人」の射程は極めて長く設計されている。この映画の受け手は、その性的指向に関わらず、この映画を一つの符牒として共有し、互いに目配せだの頷き合いだのを交わし合うことさえ出来る。個人に隠蔽>>続きを読む
この映画は、トム・クルーズの身体運動によって、ハリウッドの定番的な画面を自由闊達なものにしている。また、この映画には身体運動の孕むサスペンスがある。つまり、一瞬ごとに運動が加速し、運動とスペクタクルが>>続きを読む
ここには様々な映画的記憶が濃密に染み付いていて、それは作り手が語らんとすることを端的に表現するために始動する。すると、それは受け手の記憶の表層に“知”として一気に浮上する。この映画は、現代的な物語と題>>続きを読む
最も個人的なことが最も創造的である。明らかに個人的な性格のアニメーションが現実の混乱を止揚し、一種の美的な要約が起こり、洞察の代わりをしている。
この短編アニメーションには、ふとした時に画面の一カ所が非常に上手く作動している瞬間がある。こうも容易く現実を複製してしまうのかとハッとさせられる瞬間が紛れ込んでいる。
これは演劇(表象的リアリズム)を標榜する作家による心理的リアリズムの映画のようだ。現実の生における知覚・認識的な表象作用の透明性ではなく、カメラの目と一体化する映画的表象装置の中に観客を取り込む。そ故>>続きを読む
演劇、それはカメラの目ではなく「私の目」で見るもの(表象的リアリズム)。映画、それはカメラの目と「私の目」が同一化させられるもの(心理的リアリズム)。「天使の影」それは演劇と映画が共謀し、対立するリア>>続きを読む
ファスビンダーは、演劇と映画の交配によって、生み出された混血種の作家である。彼は映画の中に演劇的な性格を融解させようとはせず、カメラの持つ可能性によって、むしろ演劇的な構造や、そこから生じる心理的な効>>続きを読む
この映画はドキュメンタリーの作られ方をした劇映画である。テクスト(法定記録)に運動と感情が乗せられた画面には、作り手の主観的な思考の痕跡は殆ど残されておらず「仮借のない吟味の機械(カメラ)」が会話と彼>>続きを読む
言うまでもなく、この映画の主題論的な統一は、インディ・ジョーンズの老いによって維持されている。それは映像の枠内における各種要素(俳優、大道具、セット、空間)に演出されている。映画という時間体験の中で一>>続きを読む