ShotaOkuboさんの映画レビュー・感想・評価 - 5ページ目

ShotaOkubo

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健康でさえあれば(1966年製作の映画)

4.2

ピエール・エテックスの映画を見ると、映画という表現は、つくづく観察と要約から成り立っていると思わせられる。誰もが見落としている日常の運動を観察し、誰もが共感できるように要約し、提示してみせる。そんな表>>続きを読む

女はコワイです/恋する男(1962年製作の映画)

4.2

ピエール・エテックスの王国は、サイレントの作法を礎にして、パントマイムとガラクタが積み上げられて出来ている。言葉は要らない。彼の王国は目に見えるものだけで作られている。

破局(1961年製作の映画)

4.0

彼の手に掛かれば、取るに足らない文房具さえも輝き出す。彼のパントマイムとガラクタが撚り合わせられて出来るのは、全く言葉を必要としない映画的言語である。

大恋愛(1969年製作の映画)

5.0

映画とは、映画作家の媚薬によって、劇場に居る全ての観客が等しく見る夢である。映画作家の手によって結えられたイメージの連続が奇妙な、しかし、誰にでも理解できるように夢を体験させる。演じ手がベッドの中で夢>>続きを読む

幸福な結婚記念日(1962年製作の映画)

5.0

何でもない事や物、例えば、路上駐車、渋滞、髭剃りの泡、煙草等から素晴らしい瞬間を生み出すことが出来る数少ない作り手の一人がピエール・エテックスである。それらのガラクタは、彼に触れられると、たちまち別の>>続きを読む

コンパートメントNo.6(2021年製作の映画)

4.8

この映画を輝かせているのは列車である。列車が持つ等方向性や不可逆性といった映画と極めて類似する性質によって、映画を形容するのに一種の美的な合理化が起こり、実体を持たない映画の美しさを具象化しているから>>続きを読む

女と男のいる舗道(1962年製作の映画)

5.0

これはアンナ・カリーナの個性を奪いながら、不可逆的に零落していく運動を撮った映画である。ゴダールの映画にあって、特別な存在たる彼女でさえ、この運動には抗えぬまま「女性」という記号のみを残して舗道に立ち>>続きを読む

パリところどころ(1965年製作の映画)

5.0

この映画における白眉は、六遍目に姿を現す。イメージとサウンドに形作られる映画にあって、映画からサウンドが消える驚き、それが生み出す悲劇が僅かな時間の内に端的に語られているからだ。

女は女である(1961年製作の映画)

5.0

この映画は、どこまでも映画の虚構性に意識的な映画である。ミュージカルという虚構らしさの上にあるのは、恣意的な中断を繰り返す音楽、第四の壁を乗り越える演出、決められた台詞の言い間違いがある。全てが映画の>>続きを読む

すべてうまくいきますように(2021年製作の映画)

4.6

この安楽死に関する物語が炙り出すのは、それ自体の是非ではなく、絶対的な共同体たる家族の中を往来する不均衡な愛情である。この愛情が不均衡なのは、主体の客体に対する評価によって、その質や量が決定されるから>>続きを読む

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)

4.6

この映画は受け手に自らを吟味するよう促す力がある。小さな島に起きた対立は、映画的な編集を通して、いとも容易く後景にあるアイルランド内戦との意味的関連付けが成されてしまう。こうして差し出された対立を見て>>続きを読む

ノースマン 導かれし復讐者(2022年製作の映画)

4.4

この映画においては、伝統的に良好とは言い難い関係にある演劇と映画が同居している。この映画を形式化する幕間や舞台転換は演劇の特権であり、この映画を個性化するイメージとサウンドは映画の特権である。北欧神話>>続きを読む

ブローニュの森の貴婦人たち(1944年製作の映画)

3.8

言葉と身体には随伴性がある。ある言葉が発せられる時、その言葉は何等かの身体の傾向を引き連れる。また、ある身体の状態は出てくる言葉を決定しもする。その言葉がコクトーによって、一切の贅肉が削ぎ落とされた、>>続きを読む

オルフェ(1950年製作の映画)

5.0

「オルフェ」は夢と時間が共謀した映画である。映画とは、映画作家の媚薬によって、劇場に居る全ての観客が等しく見る夢である。映画とは、映画作家の決定権によって、本来的には不可逆的な時間が自由自在に伸縮加工>>続きを読む

母の聖戦/市民(2021年製作の映画)

4.2

この映画における運動の主体「母」は、顔を光に照らされた時、内面に変化が起こり、その変化する感情と伴に身体を運動させる。先ずは光があって、それを追うようにして感情と運動が起こる。つまり、この映画の美点は>>続きを読む

グレース・オブ・ゴッド 告発の時(2018年製作の映画)

5.0

誰も知らない真実を誰もが見えるようにして示すのが映画の特権的な性質であるとするならば、この映画の沈黙を破る、或いは、知られざる真実を明るみに出すという行為は、映画的と言っていい。それぞれが告発すること>>続きを読む

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)

4.0

上質な会話劇は、目に見えることよりも、或いは、耳に聞こえることよりも、その会話が何か別の大きなことを示唆しているために、受け手の脳内を刺激する。この映画において、被告人の判決を巡る会話の後景に民主主義>>続きを読む

詩人の血(1930年製作の映画)

5.0

この映画には、脳裏を掠めていく事象を語るという完全な自由がある。非論理性に導かれた自由の連続は、コクトーの手によって、肉体を獲得している。この肉体に触れることによって、受け手は奇妙な冒険を体験するが出>>続きを読む

美女と野獣(1946年製作の映画)

5.0

この御伽噺が類稀な風格を纏っているのは、同時代的なシネマトグラフの近代技術に背を向けているからであろう。この映画作家は、伝統的な木の幹に年若い枝を継ぎ木するように映画を編集する(前景、思いがけないアン>>続きを読む

チャップリンのニューヨークの王様(1957年製作の映画)

3.8

独裁者以降、彼の身体的な運動と喜劇性は、ファシズムと戦う武器となった。この映画においては、それらはマッカーシズムと戦う武器もある。彼の身体的な運動が生み出す喜劇性は、彼に固有の刻印であるばかりか、受け>>続きを読む

ある秘密(2007年製作の映画)

5.0

社会的不正義がある所には、必ずメロドラマがある。メロドラマがある所には、必ず不遇を宿命付けられた対象がある。この不遇が幼い存在に課され、ある種の憧憬や諦観を経ていく過程に対して、クロード・ミレールの刻>>続きを読む

ライムライト(1952年製作の映画)

5.0

この映画の美点は、運動と運動が交感する点にある。年老いた才能と若い才能との間で運動は往還し、二人の感情が表れてくる。そして、その運動と感情の後継に大衆の反応があることこそがチャップリンに固有の刻印であ>>続きを読む

チャップリンの殺人狂時代(1947年製作の映画)

5.0

表現するという行為は、観察と要約から成り立っている。誰もが見落としている真実に焦点を当てて、誰もが分かるように編集することを言う。たとえ、チャップリンの映画から放浪紳士が姿を消したとしても、運動から台>>続きを読む

海の沈黙(1947年製作の映画)

4.0

濱口竜介によれば、話しを聞くということは、過去の自己を捨てていくことでもある。聞き手は、聞いた後、聞く前とは違う自己を獲得し、もう聞く前の状態に戻ることは出来ない。この映画は、聞くことによって、人間の>>続きを読む

恐るべき子供たち 4Kレストア版(1950年製作の映画)

5.0

この映画を見る悦びは、古典的なギリシア悲劇と不純な芸術の同居を見ることから来るのだろう。伝統的に良好でなかった演劇と映画を近接させる試みにこそヌーヴェル・ヴァーグの胎動を感じることが出来る。

PASSION(2008年製作の映画)

5.0

この映画によれば、本音を話すということは、この上なく過酷な行為であるようだ。本音を回避しようとすれば、自らを仮構することになり、それは自己に矛盾を抱えて生きるという結果を招くからだ。そうした「言えなさ>>続きを読む

独裁者(1940年製作の映画)

5.0

チャップリンは、サイレントの美学を捨ててまで、トーキーの魔力を借りてまで、平和を求める人々を勇気付ける演説をしてみせた。しかし、彼の作家性の一つである運動は、その反応の一つである汗として図らずも表出す>>続きを読む

検察官/勾留(1981年製作の映画)

3.8

この映画は、刑事と容疑者、二人の脚本家による物語のうち、どちらが正しいのかを賭けた戦いとして見ることが出来る。これがテクストの交換として表現されていることは、クロード・ミレールの映画においては特異だが>>続きを読む

伴奏者(1992年製作の映画)

5.0

クロード・ミレールの特権「女性」「憧憬」「諦観」が精緻に絡み合い「その人の人生における何者かでありたい(何らかの役割を演じたい)」という切実な憧れの物語が紡がれていく。物語を丹念に表現するのは、他でも>>続きを読む

なまいきシャルロット(1985年製作の映画)

5.0

若さを象徴する「ここではない何処か」の原点が「大人は判ってくれない」だとすれば、その到達点は「なまいきシャルロット」である。水に飛び込むこと。着替えること。怒ること。寝ること。見ること。俯くこと。立ち>>続きを読む

サーカス(1928年製作の映画)

5.0

作家が万年筆で文章を書くように、チャップリンはパントマイム(運動)によって世界を表現する。出口のない鏡の迷路で右往左往する姿は、巨大な資本主義に翻弄されている我々の戯画である。作家としての刻印を打ちな>>続きを読む

巴里の女性(1923年製作の映画)

3.6

確かに、この映画はチャップリンのフィルモグラフィーにおいて、チャップリンの不在(喜劇的な運動体の不在)という特殊な性質を具えている。加えて、列車の到着と旅立っていく孤独な女性の心情を窓の光だけで表現し>>続きを読む

キッド(1921年製作の映画)

5.0

チャップリンの映画は大衆に開かれている。この映画には、大衆が権力を翻弄する可笑しさがある。大衆が無自覚に振り撒く悪意がある。大衆が振り絞る微かな善意がある。大衆が諦めた夢がある。我々はチャップリンの映>>続きを読む

早春(1956年製作の映画)

5.0

小津の映画において、お茶漬けは重要な意味を持っている。いつ誰と食べるかによって、和解の印とも決裂の印とも機能するからだ。夫婦で食べると和解(=お茶漬けの味)であり、夫が一人で食べると決裂(=早春)であ>>続きを読む

Never Goin' Back ネバー・ゴーイン・バック(2018年製作の映画)

3.8

この映画は、彼女たちだけの世界に閉じていて、その世界にある幸福を卑近なまでに接写している。だから、彼女たちの貧困には焦点が合わない。彼女たちの背後に微かに滲んで見えるのみである。この眼差しが悲劇的な境>>続きを読む

ホワイト・ノイズ(2022年製作の映画)

4.0

これは衝突の映画である。「ウィークエンド」と「未知との遭遇」の衝突があり、タンクローリーと貨物列車の衝突、夫と妻の衝突がある。遡ると「マリッジ・ストーリー」も衝突の映画であったことは記憶に新しい。ここ>>続きを読む