デヴィッド・ハーバーがとにかく倒れ続ける映画。たびたび気を失うほどの転倒といくつかの落下(魔法による上昇も特殊部隊によって落とされる)。それは信じ難いものを信じ始めるという価値観の転倒。信じるまでの奇>>続きを読む
反共ヒステリー寓話としてのSFが80分になってしまう精確さ。とにかく走り続けた先で、かつて愛した恋人とのキス。そこに感じてしまった恐怖の正面から切り返し。クローズアップの過酷さ。
ニュース映像から暴動発生までの的確さ。監房内の物を投げつづける情緒。アーバックル/キートンやジャン・ヴィゴみたい。いくつか見れる通路と隔てられた扉とフェンス。そこを渡り歩くこと。囚人たちの待遇改善要求>>続きを読む
人間が人間を認めないという悲劇。訪れること〜そこで扉を開けることが『A Cane and a High Starched Collar』を歌い踊る誕生日パーティー以外は、ほぼ悲劇。対話が受け入れられる>>続きを読む
早すぎるアバンタイトル。急ブレーキで停まるタクシーに投げ込まれる荷物。トラックと激突。警察官の轢殺。放たれる銃弾。発進から停止まで、それぞれのリアクションとスクリーン・プロセス。配給ロゴと港の情景をい>>続きを読む
優れたショットがあるわけではないけど、冷静かつ慎重で意義ある映画。回顧録を体現する役者たちの佇まいの力強さが〈#MeToo運動〉前の世界に火をつけるどころか〈#MeToo運動〉後の世界にまで影響をあた>>続きを読む
雪降る砂漠のクライマックスが黄色の光に溢れていれば、ふたりは突っ走ったかもしれない。しかし、ジェフ・ブリッジスは赤色の光の中に消え、カレン・アレンのクローズアップには青色の光があたる。赤は止まる=もと>>続きを読む
薄暗いビリヤード場から活気に溢れるレース場まで、人間が「集まること」に感動。この実話にはいくつものドラマがあると思うけど、トニ・コレットのエネルギーに先導されて「集まること」に注力してる。高鳴りその一>>続きを読む
おそろしいことが過ぎ去っていくおそろしさ。ぜんぜん分からないけど、分かることもぜんぜんない。クエンティン・タランティーノか、デヴィッド・リンチか。もっともオリジナルがいちばんヤバい。クライマックスはほ>>続きを読む
到着する列車から投げられる郵便物。ストローブ=ユイレが「ネオリアリズムをふきとばす」というような雄弁さ。この大衆心理は、未開の町のコミュニティも普及したソーシャルメディアも変わらない。ウィル・ロジャー>>続きを読む
あんぱんとクレーンショット。野田高梧の「人生輪廻みたいなものが漠然とでも感じられればいい」という言葉。その「漠然」をいくつか移動撮影で表現しようとしていることに感動した。世界そのものの運動を捉えている>>続きを読む
世界一面白い映画。71分という簡潔さ。脚本、空間、演出、と画面が充実してる。車内の奥行きと扉の開閉や人物造形(巨漢と子供)でサスペンス。白の映える首飾りが暗殺者の足元に落下→パンアップすると黒で潰れた>>続きを読む
萩原利久は、好意を持たれている同僚とは向き合おうとはしない。隣に座る(会社のデスク、居酒屋のテーブル、部屋のソファ、スナックのカウンター)という同じ方向を見るだけ。しかし、萩原利久だけが見ることができ>>続きを読む
はじめの切り返しで視線が交錯していた。同じ空間にいるという根拠もない、虚構でしかないのに、何かに惹かれるようにふりむくことで、男女が見つめ合うだけで恋愛の劇がはじまる。つまり、視線の劇。しだいに視線の>>続きを読む
ほぼフィックスの長回しで人物のインアウトとアクションつなぎ。会食や葬式などのグループショットでは個々のクローズアップとして。ようやくエンドロールまでの5分間でカミーラと弁護士の切り返しがあらわれる。あ>>続きを読む
ジョン・ウェインの初登場、クレア・トレヴァーを席に案内した2ショット、というトラックアップ。厄介者として見られていた彼らが、前進するカメラを追い越して抱擁する。ジョン・キャラダインとルイーズ・プラット>>続きを読む
ゴダールの自己省察ではなく、人生ってこのためにあるんじゃないのか。ポジは誰にも生まれながらにあるからネガこそ創造されねばならない。
ガミが夫について話す時の「愛する人とは一緒にいるべき」だから「一度も離れたことがない」という言葉には違和感を覚えるし、それはおそらく彼女自身も同様であり、室内に閉じ込められ続け(男たちは屋外に追い出さ>>続きを読む
カーナハンの殺し屋軍団&メル・ギブソンとグリロ親子の”I am your father”パロディからeスポーツに明け暮れる「繰り返しても飽きない」という週末=終末をループする。
地獄のような労働を続けた結果、ストレス性胃腸炎になって1週間ほど休みをもらった。かといってムーンドッグのように生きるのも闘いなんでしょ。もう知識人たちの言ってることがぜんぜん分からなかったけど、ちゃん>>続きを読む
ほんとうにスクリューボール・コメディなのかは分からないけど、対面に座って議論するよりも並んで歩き出すことで物語は展開していた→並んで座ったカウンターで成田凌が清原果耶を見つめていると泉里香のほうを見る>>続きを読む
小麦畑の移動撮影の見事な美しさ。その直前のカットでフェンスゲートを開けるのではなく、ヒロインを抱き上げ、2つのトランクケースを持ち上げ、飛び越えてみせる身軽さだってすばらしい。嵐のなかで馬車に座り、「>>続きを読む
放浪する男の孤独な姿。ほぼ幻影になっているジョン・ウェインは家の暗さのなかには入れない。
雨戸開けた(ピン送り)ときの美しさ。そこでブランコに揺れている娘が見えるのだからすばらしい。キスシーン後の自然がやばい。シルヴィア・バタイユの横顔がシアーシャ・ローナンに見えた。
あの一本道をふたたび歩き出すまで。日記の修正と加筆。「We/私たち」から「I/私」と「待つことができない」に「待つ」を書き足す。It might have been/そうなれたかもしれないという詩情を>>続きを読む
カラーの艶かしさ、馬のかっこよさ、それ以上にコンスタンス・タワーズのスカーフを取るためにジョン・ウェインが自分のスカーフを投げ捨てるという雄弁さに惚れ惚れしてしまう。
さすがに順行と逆行が同じ画面にある映像は面白いけど、それ以外のアクションがつまらない。アイデアを体現するだけでショットを撮ろうとはしない。そんなリアルさよりフィクションのリアリティを追い求めるべき。あ>>続きを読む
滑走や跳躍よりも転倒が契機になっていた。それはスティーヴィーが気持ちの速さに追いつくことができないからである。たとえば、軋轢や影響や憧れによってスティーヴィーの気持ちは動かされ、その速度は上がり、転倒>>続きを読む
柳英里紗がハンモックで揺れているだけ。それはアンディ・ウォーホルのような退屈さにもなり得るけど、めちゃめちゃ興奮した。『惑星のかけら』や『ローリング』のヌードよりもこうした太腿の間歇のほうがエロい。仰>>続きを読む
照明部出身だから照明がすばらしい。その光(と、かげ)によって家族は立体的になっていく。カーテンの揺れとトンネルの記憶がそれを顕在化させ、拳の痛みという生々しさを得る。=バーにある横長の鏡と病室にある縦>>続きを読む
無思慮な人たちによってこのままでは世界が終わるという風刺。しかしジャームッシュだから許されるのだろうけど、オフビートとは言えないくらいに弛んでる。とくに渡された台本というメタなんて投げ遣りすぎる。内輪>>続きを読む
絶え間ないトランザクションからハワードは生き抜くためには自分を売るしか道はないというギャンブル中毒者であり、すべてを引っ攫うエクスタシーまでサフディ兄弟のハイテンションさによってそれらを経験する。
児童虐待/自警/余命ものというテーマに「ザ・ブック・オブ・ヘンリー」が耐えられていない。スリラーに展開してそれに反することが親子のドラマになるとも思わない。子役たちの演技だけがドラマチック。
カフカの『A Report for An Academy』みたいなこと?
文学/映画の引用から「愛とは努力すること」に導かれるのはいい。プラトンが言うような自分の片割れを探すのではなく、サルトルが言うように他人こそ地獄であり、自己と他者との対立に支えられたアイデンティティへ>>続きを読む