ここには正しく計測されたギャグなどありはしない。もはやシュールでさえあるアイデアのつるべうちは、身体的コメディの撮り手の不在を感じさせぬでもないが、この史上最もナンセンスなコメディがバスター・キートン>>続きを読む
『オペラは踊る』のマルクス・ブラザーズは、目の前のものを破壊して回らねば気のすまぬ、出鱈目で迷惑極まりない機関銃のようだ。この機関銃たちの銃弾は、もっぱら自らの身体であり、その騒々しさたるや並大抵のも>>続きを読む
「オピオイド鎮痛薬」をめぐる事態と闘うナン・ゴールディンと彼女の半生、そして代表作『性的依存のバラード』成立に至る経緯が語られる。
ナンは「物語化」への抵抗とそれに対する「事実の記録」としての写真に触>>続きを読む
特に物語があるわけでもない。ここにはほとんど伝説のようなパフォーマンスが、ある時代の熱とともに刻まれているにすぎぬ。だがそれは紛れもなく必見だ。
落ち着き払ったショットの連鎖は繊細な眼差しを捉えて驚くべきしかけを予感させる。とはいえ、そのしかけがすばらしいのではない。そうではなく、視線への演出ぶりの見事さ、そしてごく「普通」のショットの慎ましく>>続きを読む
寡黙な少女が決して喜ばしい思いではなく、遠方の親類に預けられる。口数少ない少女がその親類と心を通わせることを、台詞でなくいかに表現するか。そのためには、同時にパンをほおばってみたり、一緒に料理の支度を>>続きを読む
全体としてやや審美的すぎ、音の使い方もわざとらしさを感じた。世評ほどノれなかった。
映画における死は、単に不動であるのだが、この映画における死は、切羽詰まったものを感じざるをえない。じっさい、死が迫るニコラス・レイそのひとが被写体になっているのだから当たり前なのかも知れぬが、それだけ>>続きを読む
専らラストの「最後の瞬間の救出」における平行モンタージュがもてはやされるが、グリフィス的動物が微笑を誘い、リリアン・ギッシュのイノセントそのものといった表情や仕草は可愛らしく、ロングショットも尽くすば>>続きを読む
じんわりとスクリーンを満たす不穏な倦怠。それは、落ち着きのないとさえ思える男の、立ったり座ったり、手で掴んだり離したりする挙動という形で波立ち、いつ炸裂するとも知れぬ予感を漂わせる。
2時間に満たない時間の中で、「王冠の真珠」をめぐる歴史と散逸したみっつの真珠の捜索が語られる。驚くべき語りの速度は、途中ついていけなくなるかというほどに速い。ラストの「落ち」も含めて見事というほかない>>続きを読む
ここではギトリの作品を特徴づけるまくし立てるようなナレーションはやや控えめで、楽屋での複数の人物による演技論というべきやり取りが繰り返される。ここに滲むのは、演じることの過酷さや厳しさといった事態であ>>続きを読む
ギトリの作品で最もよく知られたひとつと思うし、私もDVDで鑑賞してもいるが、『幸運を!』や『役者』のような傑作に比べると、相対的にやや落ちるようにも思った。だが、冒頭の毒キノコのくだりからエンジン全開>>続きを読む
一見すると、さしたる野心めいたものは感じられぬありふれたコメディのように思われるかもしれぬ。だが、この作品は紛れもなく傑作であり、出鱈目でありつつ品があり、ジャクリーヌ・ドゥリュバックが溌剌とした魅力>>続きを読む
思いがけず先祖の遺した財宝を手にした男爵が、自身の名を冠する町に住む人々に幸いを与えんとその財を使うことにする。
古風な価値観と気品に支えられているも、登場人物の身なりがナレーションに導かれて何の前触>>続きを読む
オーソン・ウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』が本来収まるべきフィルムを想像したり、今や「古典」と呼ばれもする巨匠たちのスチル写真から、その作品の全容を想像してみたりする行為を通じて、ことによっ>>続きを読む
簡潔なショットの連鎖に、役者の身振りと声が完璧に定着している。上白石萌音の硬軟豊かな、松村北斗の微妙な変化をさりげなく反映する身振り。渋川清彦と光石研は、画面ごとに自らが現代日本で最高の役者であること>>続きを読む
『上海ジェスチャー』、『夜の人々』、ニコラス・レイ、『ファウスト』、『リオ・ブラボー』、ドライヤー、『奇跡』…
かくも多くの固有名詞が召喚される『瞳をとじて』は、見つめることと見つめ返されることの映画>>続きを読む
これは相当変な映画だ。
すべてが大がかりだというのに、すべてに意味はまるでなさそうに思える。それは、まるでビートたけし演じる羽柴秀吉の最後の身振りのように、「事実があるだけで表層に意味などない」のかも>>続きを読む
独創性から背を向け、想定されることしか起こらない。だが、それはこの作品において瑕疵というべきものではない。この「普通」の映画が貴重になった現在において、イーライ・ロスの丁寧な演出ぶりに支えられた「普通>>続きを読む
何度も見返す気になれない映画が存在する。
私にとって『自転車泥棒』はそのような作品のひとつである。それは、出来栄えが著しく悪いとか、役者の演技が酷いとかいう理由ではなく、現代の地獄めぐりのような挿話ひ>>続きを読む
ネオレアリズモなどという言葉でおさまらぬ、真の傑作。今なおアクチュアルな作品。
見逃していたのを拾うことができた。自宅でこの尺は絶対見ないと思うので。
長いし、やはり無駄なショットが多いように思う。ドローンのショットはことごとく駄目だったと思うし、ディカプリオ、デ・ニーロの熱演や>>続きを読む
常に微温的というか、冷めきることもなければ激情に熱くなりすぎることもなく、しかしふとした拍子にそれらに転がってしまいそうなひりひりとしたもどかしさや苛立ちを、慎ましく繊細というべきキャメラが捉えるさま>>続きを読む
『ファースト・カウ』が時間をかけて描くのは、これまでアメリカ映画が切り捨ててきた、シーンとシーンの間にある、細やかな身振りとほとんど停滞しているかのような時間だ。ライカートは、この身振りと時間の再=発>>続きを読む
慎ましいショットの連鎖に、照明の見事さ。かといって過度な静謐さに陥るでもなく、日常の細やかな仕草へのアクションの感度は失われていない。これを至福の体験と呼ばずしてなんと呼ぶのか。