最初はテロップによる場所や人物の説明が煩わしく、ワン・ビンまでもが分かりやすい映画を撮るようになってしまったのかと失望しかけた。しかし、労働者の固有名詞を字幕で連呼することから、名前のない人間を撮り続>>続きを読む
人間が人間を手当たり次第に殴り、葉巻は常に爆発する。猫に同一化する子供。この子供が劇中最強のミソジニストかつレイシスト。
ウォーレス・ビアリーが忘れられた人間になる瞬間は真に感動的なシーンであり、だか>>続きを読む
最後の兄弟の再開は、引きの画で撮るべきだったと思う。
己の不幸を嘆きながら自死を選択する。「あの世がどんなところでも、ここよりかはマシだ」
ブルジョワジーの頽廃というテーマや、思い切り開口することが非人間への入り口になることなど、一作目にもあった。この監督に限らず、細切れのイメージをフラッシュバックのように用いるのは、表現としてずいぶん昔>>続きを読む
生身でなく、画像としての付き合いがもっとも幸福であるように見えるのは面白い。韓国エリートの表象としては、好き嫌いはあれど、ホン・サンスの方が表現としてラディカルではある。素朴に運命論とか信じてしまう身>>続きを読む
フローレンス・ピューの幽霊的な現れ方、人間消失のイメージなどは面白い。最初の雨水による波紋と粒子のイメージは、最終的に爆弾の球体と爆発のイメージに繫がる。
それにしても、3時間の映画としてあまりにカッ>>続きを読む
ホテルの中を遊歩しながら過去を幻視する。イングリット・カーフェンが「カプリの漁師」を歌っているときに同性愛の話題がでるのは、ファスビンダーを意識しているのか。
リマスターは確かに美しいが、フィルムの粗>>続きを読む
いかに美しい構図を作るかを映画内で語る。庭園という美学的に重要なテーマだから成立している。少し露悪に寄りすぎており、グリーナウェイのなかではやや落ちるほうだと思う。
画を作ることには情熱的だか動かすことにはさほど執着していないように見えるのは変わらず。特に、肉体のぶつかり合いとしてのアクションにこの監督はまったく興味がないのだとわかった。絵画>映画。ハンス・ジマー>>続きを読む
プロスペローが魔法を使って妖精や怪物と戯れるあたりからこの監督の悪魔的演出が頂点に向かってゆく感じ。
どうしてグリーナウェイにはドリーショットが多いのかは結局よく分からず。横たわる人間→堕落(腐敗)と>>続きを読む
前作は家で今回は街。人物がフレームアウトしてからもショットが持続する。街の風景を見せている。博物館で街の歴史を知って、写真で人間の記憶を辿る。人間の不在は至るところで強調されている。空家のガスメーター>>続きを読む
全体が大きなパズルのような映画。認知症も盲目も障害も、すべて物語を動かすための機能を持つ。持ってしまっている。その意味で、小説的な映画。
もしこれが黒沢清だったら、ビニールハウスそのものの特異性に執着>>続きを読む
幻想に触れる触媒として、鏡や双眼鏡などが用いられるが、厳密に何かを必要としているわけではない。
撮影:レナート・ベルタ
父親の存在に対しては爆音の50cent、息子に対してはピアノの旋律、というように、人間と音に密接な関係性を持たせる聴覚的な演出。クライマックスは録音の音声。だから、劇伴は最小限に抑えられている。
自ら>>続きを読む
星を見ながら縄跳びをして、数を数える子供。最初の殺人から溺死が連続する。プールで夫を溺死させる妻、その殺し方が凄い。すべてをあきらめて服を脱ぎ、沈みゆくボートの上で死ぬのを待つ。
腐りゆくものを撮る、という主題。堕落した人間と腐った死骸とがモンタージュされる。赤いドレスを身にまとった女性が室内にフレームインすると、その空間が赤く照らされる。
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
天体の運行のようにダンスした後、ひとりで街灯の下を歩く。巨大な存在(鯨)の出現とともに破滅する人間たち。破壊的な群衆は、最初は軍隊のように行進してゆくが、やがて亡霊のように、明かりの中に影が浮かび上が>>続きを読む
見せ場のほとんどすべてが逃走と追跡であり、肉体のぶつかり合いとしてのアクションはない。唯一の活劇的シーンはフラッシュバックの中だけ。戦わないアメコミ映画。
細部の説明をことごとく放棄しているのは好感が>>続きを読む
映像、音、言葉、それぞれに近づこうとすると、どれも唐突に中断される。イメージに触れることを作り手が拒絶しているように感じた。文化など消えてしまえばいい、と言う。
精神分析の言説を具現化する必要はあったのか。ボーの少年時代のエピソードはよかった。あそこだけP・T・アンダーソンがいた。作家の自由がある程度まで許容されるA24より、もう少し商業主義的な製作基盤のほう>>続きを読む
歯磨き粉、石鹸、シリアルなどのCM。ニクソン大統領、ベトナム戦争、核爆発のニュース映像。巨大イナゴ、巨大蜘蛛、巨大人間、巨大鳥。
“strong medicine for sensitive peop>>続きを読む
いわゆるスローシネマ。特に都市空間における移動のシークエンスに顕著だが、ヒーリング的な効果を生んでいる。癒しとしての映画というわけだが、スローであることが、加速主義的な現代に対する映画のオルタナティヴ>>続きを読む
失踪する映画監督、という主題は前作に続いて現れる。この映画監督は、各地に点在するモニュメントに異常な関心を示している。物質は残るが映画は残らない。空洞的な都市風景はアントニオーニ的。
16ミリで撮られているのは、画面に映るあらゆる光を際立たせるためなのか。街灯、懐中電灯、星。ただ、少し光のテーマを反復し過ぎている。わかり易すぎる。商業映画だからいいのか。「外で話せない?」と言われて>>続きを読む
あまりに説話的で、少し悪い意味で、エリセのなかでは例外的にわかりやすい。フィルムへの郷愁にムルナウやニコラス・レイを持ち出すところなど通俗的ですらある。もっとも優れたショットは冒頭の数カット。デジタル>>続きを読む
長野県遠山郷の霜月祭。農民一揆によって皆殺しにされた遠山家の怨霊を鎮める。仮面の踊り手には遠山家が重ねられているらしい。当たり前だが画面に血生臭さなどなく、笛の音がむしろ牧歌的に響く。夜を徹して、とい>>続きを読む
都市生活の断片と、ところどころに自然風景がモンタージュされる。雑踏、室内、電話、空ビン。楽しみにしていたあやとりの部分は、それがどの地域所以のものか説明はないが、人間が歩いたり、鳥が羽ばたいているよう>>続きを読む
広角レンズを室内外問わず多用している。小さな穴から覗き見るような画角も頻出する。ハンナ・シグラに似ている人が出てると思ったらハンナ・シグラだった。指輪物語のゴラムまで出てきて衝撃を受ける。
獣から人間>>続きを読む
ヴィットリオ・ストラーロは、基本的に映画全体の基調色を黄昏時のオレンジ色に設定している。その画面のなかで、死にたい人などいない、と平然と登場人物に言わせてしまうアレンの陽キャ性。陰キャと見せかけて実は>>続きを読む
64年オリンピックの「反」記録。ランナーの闖入を無限に反復する。音楽は鳴り止まない。
さすがにこの映画をバーヴァの作品だとするには抵抗がある。女性が老けてゆくのをワンショットで捉えている。女性は鏡に写る自分の姿に耐えられず、拳銃で鏡を撃つ。パリが舞台でみんなイタリア語を喋る。
古川琴音が通行人を助ける場面が序盤に2回ある。映画全体として、都市と田舎、若者と老人、といった二項対立を脱する要素は見られなかった。老人の描写に関しては、タイ・ウェストの『X』を想起させる。
眼鏡からコンタクトレンズに変えることで別人になろうとする。片方のレンズが割れた眼鏡、陰気な青年の暴力性など、少しペキンパーを思い出す。映画全体の興味は、あくまで物語に向けられている。
主演男性2人の恋愛映画。黒いスーツのヤクザと白いワイシャツの学生、2人の服の色が反転し合う。違う色だけど同じ、という演出。
映画は動画ではない、映画は巻き戻せない、と言う。そして映画部は廃部になる。
前作にあったアクションの躍動は失われている。ドローン撮影の多用なども気になるが、そもそも前後のカットが繋がっていないシーンが散見される。最後の直接対決でかろうじて身体の動きが活性化し、映画が息を吹き返>>続きを読む
川の流れる音をイヤホンで聞く女性のショットから始まる。聞くことの映画として提示される。人が喋るときに吃ったり、沈黙したりするときに、彼らに耳をそばだてることを観客に要請しているように見えた。カタストロ>>続きを読む