カラックスは天才、鬼才を超えたファンタスティック・ビースト。
映画で最も退屈である無駄な俳優、スタッフ紹介のタイトルロールをアレンジ。こんなオープニングもあるのかと度肝を抜かれた。
今作は現実と神>>続きを読む
21世紀以降、いまだ『EUREKA』を超える実写の日本映画は現れていない。
映画監督の仕事は役者の演出でも、映像や音楽をこねくり回すことでもない。世界に眼差しを提供すること。
青山真治は白黒でもセ>>続きを読む
青春は故郷と実家を離れた瞬間から始まる。
河も涙も流れ落ちるからこそ澄み渡り、新たな物語が宿る。同じ箇所にとどまっていたら水は濁る。
イギリス映画なのに『真昼の決闘』などアメリカの音楽を流すところ>>続きを読む
スピルバーグという夢先案内人。自身が誰よりの映画ファンであるから、映画ファン(観客)を信じている。
現代には合わない緩やかなテンポ。まるで文学。月はかぐや姫であり、ファンタジーな題材を文学で描くET>>続きを読む
星ありにしたが、映画としての評価は難しい(映画に点数は付けたくないので、星ありか無しで評価している)
フィクションの部分が退屈で、ドキュメントの部分にグッときた。自分は毎週、この舞台である京成立石に>>続きを読む
演出の点でスピルバーグの最高傑作。
全盛期のスコセッシやコッポラが撮ったと言われても遜色ない。長年コンビを組んできた撮影監督のカミンスキーとの歴史は今作のためにあったと言っていい。
ミュージカルは>>続きを読む
パワー・オブ・ザ・カンバーバッチ。
自分は役者ではないが、これほど見事に他人の人生を表現できる力に嫉妬を覚える。
Netflix映画だけどNetflixで観てはいけないレベルの映画。動画配信は名店の>>続きを読む
ホワイト・ノワールの大傑作。
天国と地獄では前者に行きたいが、覗いてみたいのは後者。今作だけを見るとファーゴという町は恐怖の対象でしかないが、それでも訪れてみたくなる磁力がある。
タランティーノの『>>続きを読む
音酔いした映画は初めて。途中から太鼓が呪文か念仏に聴こえてきて、映画館を出るときはフラッフラ。高山病のような状態に陥った。
映像を映画に変換するのは観客の仕事だが、未経験の戦慄。なんとしても佐渡島に>>続きを読む
韓国ノワールの限界を大きく広げた力作。
『サイレント・ノワール』とも呼ぼうか。
これまで我々が観てきた暗黒映画は、両翼の片方だったと気付かされる。
それまでの”型”だった、雨・銃・カーチェイスを使>>続きを読む
令和に世界一の映画監督に飛躍する濱口竜介。その翼を堪能できる平成最後の作品。
最初は鼻につく役者陣の下手くそな関西弁が徐々に気にならなくなり、東出昌大の俳優力が顔を出す。
しかも峰不二子じゃあるま>>続きを読む
『ドライブ・マイ・カー』の衝撃を引きずって、濱口竜介監督の最新作を観に渋谷へ。
まさかの、さらなる衝撃。今作が令和三年のナンバーワン日本映画。
浮遊感の重力。後ろ向きな前身。
映画がひとの背中を>>続きを読む
半年経ってようやく観たが、去年のナンバーワン日本映画だった。このレベルの衝撃、久しぶりに映画館で震えた。
良い寿司は酢飯に適度な空気があるように、素晴らしい映画は自分を投影する余白を持つ。キャラや物>>続きを読む
歳をとると早起きになるのは、朝の光に恋をするからだ。
クリント・イーストウッドの監督50周年にして40作目の映画『クライ・マッチョ』は朝の場面が多い。
メキシコの曙光が、老カウボーイを祝福する。主>>続きを読む
歴代最高の窪塚洋介。「芝居」とは「芝の上に居る」と書くが、まさにその境地。
幽霊のような浮遊感と、しっかり地に根を張った芯の強さ。自然ではないのに自然。窪塚洋介は映画で表現すべきものを0.1mmの狂>>続きを読む
映画史上もっとも製作費の無駄づかい。
高級食材ばかりを鍋にぶち込んで失敗する典型的な例。
社会風刺、ブラックコメディという免罪符を使えばいいってものではない。
これは笑いではなく、ただ政治家を小>>続きを読む
日本映画でこの空気感が表現できるのか。
映画とは役者同士の間合いによって”空気”を生み出す芸術装置なのかもしれない。
サングラスによって相手の視線(意思)を逸らし、自分への浸入を拒否するARATA。>>続きを読む
『missing Johnny』の英題を『台北暮色』に変えたことがMVP。なんという情緒。
観光名所やドラマチックな展開が迎えてくれるわけでもないのに、台湾に行ってみたくなる。淡々と日常を描くだけ。>>続きを読む
令和四年の映画初め。
23歳の女性監督であることに驚いた。斬新な撮り方はせず、ラブシーンなど70年代の角川映画を思わせる。
不倫こそが純愛であることを北村匠海を通して描いているから、奇抜なことはせ>>続きを読む
井筒和幸がニューシネマやフィルム・ノワールを輸入したように、今泉力哉はジム・ジャームッシュを下北沢を舞台に再生した。
と言ったら今泉監督に失礼だろうか。それでも、人間のズレの面白さはどうしてもジャー>>続きを読む
嫌いだったマックを心酔するまでの男に変えてくれた作品。マクドナルドを「マック」と呼ぶのに嫌悪感を覚えるのは、自分にとっての「マック」はスティーブ・マックィーン以外に有り得ないから。
ノーマン・ジュイ>>続きを読む
1人の男の人生をフィクションでもドキュメントでもなく、「ミュージックビデオ」として描いたスコセッシの凄さ。
ギャングという重たい食材を、曲の流れに乗せて映画という最高芸術と調和。リズミカルにポップに>>続きを読む
映画がなぜこの世に存在するのか?
その答えが『ファイト・クラブ』にある。
タイラーの赤いサングラスは赤ん坊の色。
本能というフィルターで世の中を見ている。本能で生きる者には、お金もブランド品も必要な>>続きを読む
新撰組に興味はないが、役者とカメラワークの良さで楽しめる。沖田総司の山田涼介の空気感が良く、動きの速いカメラ移動も激動に揺れた志士たちを表現している。
監督は池田屋事件までを描きたかったと言うように>>続きを読む
映画は走る男の姿をとらえ、観客を動かしてきた。
『ロッキー』のシルベスター・スタローン、『血煙!高田馬場』の阪東妻三郎。彼らには走る目的が明確にあった。
『草の響き』における東出昌大には目的がなく>>続きを読む
ジョニー・デップの心意気、受け取った。
チッソの社員を露骨に悪者にしていたのはまるで時代劇だが、ユージン・スミスの流儀、生き様を届けてくれた。
スミスは写真を撮る側も魂を抜かれると言う。被写体と向>>続きを読む
「歌」はミュージシャンが作るが、「音楽」は観客と一緒に創る。音楽に参加する観客もアーティストのひとり。
スマホもコロナもSNSも”雑音”がない時代。そこには不可能なんてないと思わせる無垢な熱狂があっ>>続きを読む
映画はなぜ映画館で観るべきかの議論は、この作品で決着する。
映画館は闇の世界であり、暗黒の住人の我々は外に出た瞬間、世界が輝いて見える。新宿武蔵野館を出たあとが、まさにそうだった。
スクリーンの暗>>続きを読む
この映画には我々がフィクションに熱狂する理由が集約されている。
誰もが何らかの仮面をかぶって生きており、この世は仮面舞踏会。
すべては虚構だが、その中には、たった一粒の真実がある。その瞬間に出逢う>>続きを読む
女の情念を通して、男と女を描く。
源十郎を堕として呪い殺そうとする死霊。
命を賭しても我が子を守る母。
犯されて女郎になっても生まれ直す女房。
女は「雨」のごとく濡れ、美しさは儚い。
男は「月」と>>続きを読む
まさかの二丁拳銃、大五郎のガトリング銃。チャンバラ全無視、冥府魔道の映画。
古き時代を見せるわけでも、昔の人情を伝えるわけでもない。殺陣は敵ではなく、観客の先入観・常識をぶった斬ってこそ。
子連れ>>続きを読む
鳥人ブブカも真っ青、火事場の棒高跳び。
時代劇でもアクション映画でもない、アクロバティックな殺陣映画。若山版007。
滑稽なスプラッター・ムービーの中で、主役を大五郎にし、幼子のサバイバル物語にし>>続きを読む
最も鑑賞数の多い映画。
『カリオストロの城』の本編は、実は最初の数分。炎のたからものが終わるオープニングまで。
冒険の舞台であるカリオストロ公国に向かう旅情こそが、作品の心臓であり、ロードムービー>>続きを読む
すべてのアートの源泉は、本能の解放。
今作の「性」への寛容は、すなわち「映画」に対する観客の寛容ともリンクする。
映画は2時間そこらで人生を描こうとする暴力的な芸術で不完全のアート。粗を探せばいくら>>続きを読む
子連れ狼には色気がある。昭和の色気がある。幼児の切腹・介錯シーンや、路上での強姦などオブラートに包まず見せているからだ。
ヒーローものなら主人公が助けるか復讐するが、拝一刀は目をつぶる。余計な戦いは>>続きを読む
座頭市は「月」である。闇夜で、おたねを優しく見守る光。
三隈研次は時代劇×ヤクザという2本の刀を重ねることで、至高の映画を生み出した。
呼吸の乱れ《聴覚》で平手の病を察する座頭市、右肩の筋肉《視覚>>続きを読む