黒澤明、三船敏郎による聖者の行進。楽しくて仕方ないのが伝わるほどカメラが踊っている。カメラが笑っている。黒澤の脂が乗り切った傑作にして、三船敏郎の生涯最高の演技。
常に芝居を打ち続ける椿三十郎を演じ>>続きを読む
戦国時代でも江戸時代でもない、平安・鎌倉の黒澤時代劇。北陸の山峰の簡素な風景と、名優たちの迫力がタイムトラベルさせてくれる。
すべての役者を食うエノケン存在感。大河内傳次郎、志村喬といった稀代の俳優>>続きを読む
なんてクソカッコいいオープニング。和太鼓の音にテロップが流れるだけ。なのにシビれる。歴史なのか未来なのか、黒澤明の映画には時空を超えた重力が宿る。
『隠し砦の三悪人』に続き「悪」を使う。黒澤の良心だ>>続きを読む
黒澤活劇の真骨頂。陰の最高傑作が『七人の侍』なら陽の完成作が『隠し砦の三悪人』
黒澤映画=志村喬から三船敏郎に完全に襷が渡されたクロスロード。馬術のカッコよさ、馬上のスマイル。三船敏郎という太陽は雪>>続きを読む
リュミエール兄弟は『工場の出口』に続いて映画とは何か?を観客に示した。
それは人や物、物語が観客に迫ることである。リュミエール兄弟は列車が旅立つ風景ではなく、列車が迫ってくる迫真を捉えた。これこそ映>>続きを読む
この映画が重要なのは世界初の映画という一点ではない。リュミエール兄弟は無意識に「映画とは何か?を示した。
「出口」
映画とは観客に何らかの「出口」を提供するもの。その出口ははじめから存在するもので>>続きを読む
映画が生まれた1985年12月28日、『工場の出口』と同日に公開された世界初の脚本あり作品。
1分にも満たない活劇のなかに、その後の映画のなんたるかが詰まっている。
音もセリフも必要としない、活動>>続きを読む
黎明の黒澤明の40年代を締めくくる作品。
酔いどれ天使でヤクザを演じた三船敏郎が今度は刑事。演技力の志村喬、存在感の三船敏郎。最強のパワーバランス。映画史に刻まれるバディ。
バスの中で拳銃をスラれる>>続きを読む
志村喬も三船敏郎もいないコテコテ恋愛映画。メンヘラの男に支える女。この男女の関係性を戦後すぐに描いた黒澤明の驚異。居酒屋で流れる並木路子の『リンゴの唄』が女性の強さを象徴している。
デートの上野動物>>続きを読む
無骨な志村喬、ニヒルな三船敏郎。日本映画史の最高傑作『七人の侍』に通じるイントロダクション。
時代劇でない若き三船は中国をバックボーンに持つからからか、上海や香港の色気がある。レスリー・チャンやトニ>>続きを読む
男×活劇。蓮の花が咲くように、黒澤明が発芽したデビュー作。戦火によって完全版が残っていないのが惜しまれるが、梶原一騎の柔道マンガに大きな影響を与えた痕跡が見られる。デビュー作から志村喬と組んでいたこと>>続きを読む
戦時中にも輝く阪妻。中山安兵衛、大石内蔵助を演じた阪妻が演じた第三の忠臣蔵。
史実の赤埴源蔵は下戸、兄はいなかった(弟と妹)が、講談の世界で大酒呑みの赤垣源蔵になった。
堀部安兵衛と並ぶ仇討ち派だ>>続きを読む
暫定、今年度ナンバーワン。最高純度にして最高密度の窪塚洋介が帰ってきた。甦らせた監督の牧賢治は、商業デビュー作にして離れ業をやってのける。
何をやってもうまくいかないタクシー運転手が数十億円の絵画を>>続きを読む
観客を船酔いさせるカメラの手ブレ。それが人物の心情を見事に揺さぶっている。魚影の手ブレ。
青森弁の半分くらいが何を言ってるか聞き取れないが、それが映画。理解するのではなく感じ取るもの。受け取るもの。>>続きを読む
プリンとハンマーで恋愛映画を作れるのはPTAくらいだろう。電話をバトルのリングに昇華し、フィリップ・シーモア・ホフマンと饒舌なマスボクシングを展開。ヒステリック・ブルーのスーツ姿で窓ガラスを壊して回る>>続きを読む
素晴らしい映画は自分(観客)を正直にさせる。この時代、この村で生まれていたらどんな生き方をしただろうか?『八甲田山』『春を背負って』と並び、雪の荘厳を描き切った。
カエル、昆虫の交尾、ネズミを呑み込>>続きを読む
人物や風景をストーカーする。魅力的なものをひたらすら憑けまわす。PTA(ポール・トーマス・アンダーソン)の真骨頂。
カメラが勃起している。カメラが射精している。カメラが映像とファックしている。
余>>続きを読む
東出昌大は、強さのなかにある弱さ、弱さのなかにある強さを同時に、しかも一瞬で体現している。セリフや表情のアップではなく、引きの画で。ここまで凄い芝居は久しぶりに観た。
10年前に上京したとき7ヶ月間>>続きを読む
携帯電話もインターネットも世の中を支配する前のフェアリーテール
美男美女の会話を撮れば映画になる。リンクレーターはそう言わんばかりに会話劇の面白さを描いた。単に駄弁っているだけで絵になる
映画は>>続きを読む
『男はつらいよ』は映像落語。まくらは全シリーズの中で今作が秀逸。マドンナ色もロケ地の色もおさえ、寅さんの哀愁が滲みでている。
同じ独身、旅ガラス、甥をもつ身として、運動会の応援を断られるシーンは身に>>続きを読む
愛でも恋でもエロでもない。ただそこに人間がいる。カルメンという女がいる。
芸術でも高尚でもなく、ただの暇つぶし。ゴミクズ。映画はパルプ・フィクション。ストーリーもあってない。会話も成立しない。セリフ>>続きを読む
山は酸素なしで8,848mまで登れるが、海は120mまでしか潜れない。山の孤高、海の孤絶。たった独り、誰にも縛られない自由な呪いが男たちを虜にする。
山は高く、海は深い。女は地平線で待つしかない。イ>>続きを読む
ゴッホや広重が描くまえに見る力が凄かったように、モリコーネも脚本を読んだ段階で映画を奏でられた。
素晴らしき曲は、メロディの中で映画を上映するもうひとつの銀幕。モリコーネは監督やカメラマン、役者より>>続きを読む
映画はあらゆるデタラメの連鎖でできている。
『息切れ』の原題を『勝手にしやがれ』と名付けたように、映画を観ること、つくることは束縛からの解放運動。
ジャンポール・ベルモンドのモノローグは現代のつぶ>>続きを読む
新宿K'sシネマで3回目の鑑賞。
栗城さんの遠征に寄り添った松本監督と岸さんだからこそ描ける作品。
これ以上なにも足せない、なにも引けない究極の映画。栗城さんへの想いは誰も触れられない。編集できな>>続きを読む
日本映画の王将・阪東妻三郎の最高傑作であり、歴代の日本映画でもトップ10に入る好きな作品。
タイムマシンがあればライオンの初代通天閣を見に行きたい。貧乏長屋の夜空にぼんやり光る通天閣はもうひとりの主>>続きを読む
濱口竜介は日常の面白さを信じられる、人間の欠点を愛せる、映画の弱点を許容できる。
最高の映画は、スクリーンに向かって涙を浮かべる作品ではなく、映画館を出たとき、その背中を押してくれる。
濱口竜介の映画はチベットの砂曼荼羅に似ている。一度集めて編んで、最後にとっちらかす。
濱口竜介は言葉を伝えたいのではなく、会話している人を撮りたいのだ。
ドラマチックな物語も美しい風景もいらない。>>続きを読む
粗暴な日常を繊細に描く。映画は究極の人語り。暴力が暴力を肯定し、暴力を否定する。
暴力がメリーゴーラウンドのように周り、傷と傷が触れあい、ミルフィーユのように重なることで柔らかな感情が生まれる。>>続きを読む
登山は生と死の二元論で語られるが、そこに本質はない。フォーカスすべきは「生き方」と「死に方」。結果ではなくプロセス。
人間は白黒、勝ち負け、優劣をつけたがるが、生も死も対等に尊い。
人生は死に向か>>続きを読む
オースティン・バトラーの熱演を台無しにするダメ監督。最後に本物のエルヴィスのアンチェンインド・メロディの映像出してどうすんねん。
だったら最初からドキュンタリー映画にしたらええやん。スラムダンクの最>>続きを読む
細田守という固有名詞が躍動する夜明け前。東映アニメーション時代の映画監督デビュー作。20分の短編に無名の新人は伝説を彩った。
主人公・太一とヒカリの両親は登場するが、顔をハッキリ描かず、ネバーランド>>続きを読む
人は誰もが誰かの未来である。社会性を持たない4歳の子どもだって皆等しく誰かの未来である。
子どもは親を困らせることで、親を親に成長させる。
細田守の作品は絵本に近い。最近のアニメはゲームの要素が強>>続きを読む
今作を一言で表せば「トニー・スコットへの壮大なlove letter」
たった1人のためだけに作品を作る。そのスクリーンから溢れる愛が、往年のファンやルーキーたちにも波及する。
前作を大きく踏襲し>>続きを読む
単に性欲を満たすために相手の身体を借りているだけの群像劇。セックスは愛を確かめ合う行為と、形を変えたマスターベーションであることを問いかけている。
マッチングアプリで男を呼び出しアルバイトの休憩時間>>続きを読む
質と締め切りの両方を守る難しさ、妥協との格闘が刺さる。
戦場といえる最前線で戦えるのはクリエイターとして至高の悦び。「描くことの気を紛らわせるのは描くことしかあり得ない」。王子のセリフが今作の心臓。>>続きを読む