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美少女戦士セーラームーンRのKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

美少女戦士セーラームーンR(1993年製作のアニメ)
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無印の『セーラームーン』よりもおもしろかった。

今のアニメとは異なるモードであることがよくわかった。2つの方向のモンタージュに貫かれている。ひとつめは、ショットとショットを繋ぐ、モンタージュだ。短いショットを素早く組み合わせるフラッシュ・バック的な光と影の点滅は、そこにあてがわれるトレンディなシティポップと相まって、アクションをダイナミックなものにしてくれる。ふたつめは、レイヤーとレイヤーのモンタージュだ。全景と、キャラクターのクロースアップを重ねることによる、メロドラマティックな演出や、レイヤーをずらしたアニメ的なズームイン/アウト。時空の狭間にある廊下を後景から前景へと吹き抜ける風がセーラー戦士たちに当たる時、彼女たちの髪の毛は下から上へと吹き上がり、スカートは左右に揺れる。縦のアクションが上下左右のアクションへと還元される空間はアニメティズムに貫かれている。平面を重ねるということを創造的なやり方で行うことで、テレビシリーズに付き纏っているはずの様々な限界を突破しているように思えた。リミットは創造のトリガーなのだと改めて実感させられる。

うさぎと衛の未来の子どもであるちびうさが出てきたことで、中学生のうさぎに母親役を押し付けたと、批判的に書かれているものをよく目にする。そこまでして女性に子育てを押し付けたいかと。だが、ちびうさとうさぎたちの関係性が親子的なものだったとはあまり思えない。むしろ未来の我が子が恋敵になるというフェティッシュな状況が前景化しているように感じる。自分の子どもが自分の愛する恋人を奪うかもしれないというメロドラマが終盤に効いてくるはずだ。ネオ・クイーンセレニティ(未来のうさぎ)とスモールレディ(未来でのちびうさの名)の物語では決して描けない倒錯的な事態は、なかなか見ものではないか。無論、その男根的なフェティシズムを批判することは大事なことではあるが。

プリキュアとは異なる男と女のメロドラマは、ホモソーシャルな家族ではなく、異性愛を主軸としたホモソーシャルを形成し、これは東映動画のトレンディ・アニメ(『花より男子』や『ママレードボーイ』)と密接に結びついている気がする。

「ひとりぼっちの亜美」以降、この「ひとりぼっち」という主題が変奏曲的に受け継がれていくのは面白かった。ちびうさ、そしてテレビをみる子どもたちに「所詮人間はひとりぼっちで辛いことや苦しいことを耐え忍ばなくてはいけないのだ」という、大人になればなるほどつきつけられる宿命を背負わせる過酷さは、素晴らしい。それでも人間の温かみを命がけで訴えるからこそ、セーラームーンは世界の統一者となれるわけだ。
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