アニメーションのスタイルとしては1番好きなプリキュア。なんとなくアメリカのリミテッドアニメーションをおもわせるような描き割の甘さがいい。
スール的な結びつきに最終的に帰結するところも好き。女性のホモソーシャルを考えたとき、スールという縦の関係性が大事になってくるが、それはなぜだろうか。
タクトを無くしたキュアマリンの話は面白い。タクトで女児がプリキュアごっこをするとき、そのタクトは文字通りのおもちゃになってしまう。本物のタクトなはずなのに、女児がもち、プリキュアの真似事をすることによって、それがTVを観ているプリキュア好きの女の子たちとお揃いのトイになる。見方を変えれば、プリキュア好きの女の子たちのもつおもちゃのタクトも本物に変わるのではないかという幻想にも繋がってくる気がする。「正しいプリキュアの見方」を示しているようで、「みんなプリキュア」を補強するイメージにもなる。「私の持っているタクトは本物かもしれない」という契機は、「私もプリキュアに変身できるかも」という契機にもなるのだ。
プリキュアがプリキュアの人形劇をするメタ的なエピソードは、TVアニメのフォーマットに則しているという点でよりメタ的である。彼女たちは人形劇の前に『ハートキャッチプリキュア!』のオープニング曲を流し、劇の終了後は、エンディング曲を流した。人形劇の観客である幼稚園の園児はオープニング曲が始まるのを座して待ち、オープニング曲に合いの手を入れる。エンディング曲が始まるとその曲に合わせて踊る。ここでもTVの前の女児たちのお手本が示されている。
『フレッシュ!プリキュア』や『ハートキャッチプリキュア!』では、プリキュアが作ろうとしている子どもの国の基盤を着々と仕込んでいる印象がある。