ArsMoriendi

KEY THE METAL IDOLのArsMoriendiのネタバレレビュー・内容・結末

KEY THE METAL IDOL(1994年製作のアニメ)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

意図的に作品の深い所に関する感想は述べない。述べてしまうと「はあ、好き……(語彙力消滅)」となってしまうので、あくまで表層的な部分の感想を書く。

「ロボット」を題材にした作品だが、通底しているテーマは「アンチ・ロボット」に思えた。というより、人間がロボットを見つめる視線の中にだけ「ロボット」があり、実物としては存在しないものとして設定されているというか。

人間嫌いのロボットフェチ、蛙杖の作るロボットは、よりによって彼の忌み嫌う人間が動かさなければならないという欠陥がある。一人で複数体は動かせないし、安定性にも難ありだ。彼の無様な死に様だって、結局の所自分の作り出せたロボットが、彼の理想のロボット像から離れた、まがい物でしかなかったことによる絶望的な自殺であるように見えなくもない。
巳真博士のロボット開発も頓挫している。また彼の作り出したロボットと言うべきキィにとって、ロボットとは克服すべき感情であって、決して称揚すべきものではない。
そう、キィにとってロボットとは克服されるべき人格である。登場人物の置き方にもその考え方が見て取れる。さくら等の一般人は別として、教祖とか(まあ、当時宗教が流行ってたから置いただけかもしれませんが笑)アイドルプロデューサーの吊木さんなどは、「ロボットの表層の奥にある人間のキィ」に魅力を感じている人物として配置されている。特に吊木なんかは、ある意味ではさくらや三和土にも見抜けていない部分を一目で見抜いたわけで、最終話で「ロボットじゃない私を見せたかった人物」の中に「吊木先生」が含められているのは、まあ当然の栄誉と言えるだろう(個人的には最後まで生き残って欲しかったが、彼には因果応報的な所もあるからなあ……)。
因果応報もまた本作の一つの特徴で、巳真博士が単純な善人として配置されていないのも入り組んだ所だ。総合的には蛙杖が悪いにしても、彼自身も非人道的な実験を楽しんでいる描写がある。結局のところ、巳真博士と蛙杖の過ちをキィが引き受けるという形になっているので、余韻としても、切ないと思う一方で「仕方がない」といったような、複雑なものが残る。

それと、見る前の予想よりも「アイドル」に関してしっかりと描かれていた。三和土の存在がそれを象徴していて、ファンクラブの会長で最も鬱瀬が好きな彼が、鬱瀬美浦の欺瞞を暴くというのが興味深い構図だ。また鬱瀬は言ってしまえば蛙杖サイドの人間なのだが、悪人ではなく、むしろある意味ではキィの深い部分の理解者的な立場であるというのも面白い。
先ほど「人間がロボットを見つめる視線の中にだけ『ロボット』があり、実物としては存在しない」と書いたが、アイドルについても同じで、本作では「人間がアイドルを見つめる視線の中にだけ『アイドル』があり、中身は空っぽ」である。
ロボットとアイドルは、一見へんてこな組み合わせで、もしかすると企画段階では「ロボットもアイドルも流行ってるから両方一緒にやりましょうよ」くらいのノリだったのかもしれないが、見終わって思うのは、本作の中では(あくまで作中の話であって現実と関係ない話なので注意)上手くその二つが並立関係になっていた。
では真のアイドルとは何か?
それはドームの中で気を失っている聴衆たちに向けて一人で歌うキィだ。誰一人その歌声を聞いていない純粋に利他的な行為だ。人々の前で歓声を浴びながら歌うアイドルとは真反対のものなのである。

あと、いきなり浅い感想になるが、このナウシカみたいな謎の液体が世界を満たしていく描写、僕はめっちゃ好きだ。
最終話の最後の20分間は中々見たことがない場面で中々覚えたことのないカタルシスが得られるので、ここにたどり着けただけでも本作を見た甲斐があったというものだろう。

古い作品なので、それゆえに気になる所もあるが(例えば、ロボットの元のエネルギーが巫女というのは、今となっては安直に思える。90年代は自然ブームだから当時的には新しかったのだとは思う。またさくらちゃんの死は、クラナド的な、昔のアニメの悪い手癖だ。あと単純に最初の2話くらいが退屈なこととか。15話は大人の都合もあったのだと思うけれども駆け足すぎることとか。現代目線で見ると色々再構成したくなる所がある)全体的にはとても良い作品を見られたと思う。
これとかlainみたいな、昔の、ちゃんと中身のあるアニメを、他にも見てみたいなとそう思った。
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