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ぼっち・ざ・ろっく!のmizukiのレビュー・感想・評価

ぼっち・ざ・ろっく!(2022年製作のアニメ)
4.5
友達ができても孤独。友達は、孤独じゃなくなるための道具ではない。ひとりちゃんは、本当にバンドメンバーを尊重し、愛している。バンドメンバーも、ひとりちゃんを愛している。ぼっちで孤独だった女の子が、人との関わり・繋がりの良さのわかる孤独な女の子になった。


後藤ひとりちゃんは、ものすごくたくさんのフラストレーションの中で生きている。たくさんの足かせにモヤモヤしていて、それが爆発のエネルギーになり、音楽になっているのかなって。人前でギターを弾いてちやほやされたいけど、人前は苦手。本当は話したいことがたくさんあるけど、話しかけるのは苦手。友達と出かけたいけど、自分から誘えないし外に出ると体力的にしんどい。したいこととできることのギャップがある。彼女もそれは自覚しているだろう。自分の喜怒哀楽にとても正直で、それが彼女の良さ。超内向的で、実は底抜けに明るい。ひねくれていなくて、素直。中身と見た目が乖離しているだけで、全然陰キャじゃないじゃんって思う。好きだよ。ガチの陰キャはもっと思考もジメジメしていて、「他人の不幸は蜜の味」っていう感じだと思う。


ひとりちゃんもだと思うけど、我々の親世代がおそらくロック全盛期を経験していて、ギターを持っている人が多いのでは…?父親が昔買って、いくつか有名なフレーズを練習して満足して今は使ってないギター、もらったよ?私も。家にギターあるし、せっかくなら練習してみるか、って。両親は、Sex pistolsが来日した時にライブに行ったと言っていた。Sex pistols を生で見れる世界線って何?正直言うと、ロック全盛期の頃のロックは、勧められたりしたものを聴いたら全部「ロックだ!かっこいい!」ってなるけどあまりバンドごとの違いが分かっていないけど(笑)古典も履修した方がいいなーと思うけど、できてない。まあでも我々も、EDM全盛期を多感な時期に経験できたのはデカいと思う…!(中学生の頃ラジオで、米軍基地に入ってくる周波を拾ってひたすら聴き、楽曲検索かけまくってた。)



これを観るにあたり、蓋をしていた思い出に触れることになり、楽しかったことも辛かったこともたくさん思い出した。ずっとどこかに記録しておこうとは思ってたけどきっかけがなかったからここに書いていく。

才能がバレるっていいよね、バレる才能があって。とは思った。私も、人前に出るのは嫌だったからはじめは匿名でTwitterにギターの弾き語り上げてた。そうそう有名になんてならない。同じこと考えている人はいっぱいいるから。(しかし、そのようなところで出会う人たちは、音楽の趣味がものすごく似ている人たちだから、リアルとは違う楽しさがあった。)
高校では、あがり症だったけど敢えて全校生徒が参加できるイベント(三送会、後夜祭)で弾き語りをしたりもした。あがり症を克服したかったし、こんなに大人数の前で演奏できるのは生きているうちで今しかない!って思ったし、あとは何より、当時は上辺ばかりで物を言ったり人付き合いをしている同級生たちが本当に許せなくて、私が音楽を本気で、楽しくやっているところを見せて、てめーらも本物になれよ!って伝えたかった(声がでかいってだけでクラスで偉そうにしてるやつは嫌いだったし、それに服従してる人も嫌いだった。つまりはクラスの人間はほとんど嫌いだった。仲のいい人はいたけど、ほぼ全員他クラスだった。)。理由は違うけど、フラストレーションをエネルギーにしていたのは、ひとりちゃんと同じかもしれない。
当時の自分に対して、もうちょっと周りに流されてうまくやればよかったのにと思う反面、流されずに正しいと思ったことを貫き通したことに関しては、讃えはしないけど…受け入れ認めてあげたいと思う。自分だけは自分のことをいつでも認めてあげてもいいんだなあと思った。他人からは、そこまで認められなくてもいい。他人って、「みんな」とか、「普通の象徴」とかではないんだって気づいた。すんなり他人に受け入れられるような事物は、その時点で古い。インフルエンサーでもなんでもないからバズる必要はない。こつこつ、新しい面白いことを個人的に探していくことが幸せなのかもなと。常に真価を見極められる環境で、ただ日々を過ごすことが、本物って感じがする。何が正しいか、最善かは、時事刻々と変わっていくじゃん。だから、壊すべきものと守るべきものを見誤らないで、実行していく。一生孤独のまま、孤独だからこそかなうフットワークの軽さを活かす。上手く言えないけど、やっぱり今も世の中に本物になれ!って言いたいのかも。だから態度で示し続けなきゃと思う。深そうな言葉、いい人そうな行動に翻弄されないで、本当に深い思考にアクセスし、本当にいい人が自己犠牲で生きなくてもいい世の中になるよう加担しなければ。それが、いい人になりきれない、我の強い人間のできることであり、自分が考える限りのロックですかね。人それぞれ、ロックの形は違うと思う。

自分みたいにこじらせながら音楽をやっている人間に、私が今できることは、開口一番で技術的な部分を評価しないことかな。ポテンシャルを秘めた人に出会う機会があれば、「周りの意見は聞くな!音楽が好き・弾いてて楽しいという気持ちだけで行け!」と言いたいです!楽しければ、勝手に練習していて、気づいたら上達してる。あとは周りの公爵垂れるのが好きな大人たちが、色々理屈で分析して意味付けしてくれる。何も気にしないで突き進んでほしい。
人前で上手く弾けなくて(大人数の前だったからどんな小さなミスでも許されない雰囲気だったが、緊張しすぎて一箇所ミスった)、よくない言葉も聞こえちゃって、言われる理由もわかるし悔しい悲しい…って家で大泣きしてた時、父親の「評価をしてきた人は、ただ受け身で居ただけなんでしょう(発表したわけじゃないんでしょう)?お前は勇気を出して一人で人前に立って、演奏した。ミスはしたかもしれないけど一曲ちゃんと弾いた。それは誇りに思っていいんだよ。」という言葉にものすごく救われ、ケロッと泣き止んだ記憶がある。その後練習をそれまで以上にたくさんして、バンドを組んでもう一回大人数の前に出た。この時、演奏する瞬間だけ全然緊張しないという不思議体験をした。客席一人一人の顔もよく見えた。確実に父の言葉がお守りになっていた。身内のことめちゃくちゃ褒めちゃったけど、こんなふうに青さをバカにしない大人に私もなりたい。


弾き語りの練習は、周りよりはしていたからそれなりに弾いて歌えたけど、すごく上手いというわけでもなく、それでも何より音楽を楽しむことが一番大事なんだってことに気づいた。物心ついた頃から歌が大好きで、高校でも音楽が大好きだと確信して、音楽家になりたいと思ったことも一瞬はあった。でもある時、音楽だから輝ける、音楽に生かされる人間がいることに気づいた。後藤ひとりちゃんみたいな人のこと。副業・片手間で音楽をやって売れるのは、それはそれで全然あり。音を楽しむことが本質だと思うから!でも私は、後藤ひとりちゃんとか、『羊と鋼の森』で「私はピアノで食べていくんじゃない。ピアノを食べていくんだよ。」と言ったお姉さんのような人間の音楽が好き。ある時、私は「音楽以外でも生きられてしまうな」と気づいた。そこから、お金を稼ぐために音楽をやる必要はない、だから、わざわざ有名になる必要はない、ただ趣味で弾いていればいい。曲を聴きながら、わざとかすれさせたこの部分好きだなとか、わざと抜いた音がいいなとか思ったり、少し外れた(外した)音に含まれた感情を想像するのとかそういうのが楽しくて、真似して歌ってみたり、弾いてみたり。生業として音楽をやるには、覚悟・練習・技術が全然足りていなくて、でも楽しければそれでいいじゃんって思う。 

まあでも、こんなふうに、音楽をかなり重く捉えているから、大好きなはずだけど、近頃聴き漁ることができなくなってるなと感じる。開拓が難しい。色々聴くと、知らず知らずのうちに消耗していることがある。たぶんだけど、結構憑依しやすいっぽくて、自分が苦手としている思考が入っている曲を聴くと自分がそれになった気になって辛くなっちゃうからかな?逆に、ものすごく音楽が好きでステージに立っているんだろうな〜と思える人の音楽を聴くと軽率に感極まって泣いたりしちゃう。音楽を聴くとプラスにもマイナスにも、感情が揺さぶられて心が疲れちゃうこともあるけど、でもやっぱり好き。
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