KengoTerazono

推しが武道館いってくれたら死ぬのKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

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アイドルって立体アニメのようなものなのだと思う。生身の人間でデータベース的なキャラクター消費を行っているから、消費のスピードも、そのあり方も眺めているとキツイ部分がある。なぜなら表層を全て食い尽くすあり方だからだ。無論どれだけ食い尽くしても食い尽くされることはなく、だから消費し消費されゆくのみという感じでジリ貧なのだが、アニメは現実には存在しないため受容者の想像力を扱えばいいが、アイドルはそうはいかない。血の通った人間である。だからキツイ。受容者の想像力はダイレクトに生身の人間に乗っかる。どんなものであれ表面化したものはキャラクター消費の材料としてモジュール化する。

結局オタクとファンという最初の関係性が臨界点でそれ以上進展しようのないものだし、キャラクター消費は個人の想像力による内なる対話だからこの作品は断片的で内向的だ。実質的なコミュニケーションはオタクとファンで二分されているということだけでなく、個人の葛藤が勝手に霧散していくところもそう言える。原作だとよりその断片性と内向性が強調されていていい。最終回のレオが元いたグループのリーダーと再会するシークェンスは特にそうだ。原作ではそのシークェンスに行き着くまでに「努力は必ずしも実らない」という主題と文の葛藤が関連しながら進んでいき、文は1人でにレオには敵わないと、去勢される。だからと言って文の態度が変わるというわけはなくいつも通りだし、無論努力してセンターになるという夢は抱いたままだろう。だが、レオがアイドルを辞めなければ自分はセンターにはなれないという諦念のもと、文は老いた父親を介抱する娘のごとく、レオを勇気づける。これがのちの文が再びツインテールをする(=アイドルとしてレオと正面から向き合う)シークェンスに繋がっていく。
アニメ版では全体が舞菜とえりぴよの話に向かうべくドラマタイズされているから、前述したよさが損なわれている感は否めない。ただ、ファイルーズあいはめちゃくちゃ面白かったし、立花日菜の新人感溢れる感じも良かった。悪くはないが、原作の方がアイドルとオタクの、クローズドされているが故の断片性と内向性がドラマの展開の仕方とより結びついていていい。
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