まぬままおま

恋せぬふたりのまぬままおまのレビュー・感想・評価

恋せぬふたり(2022年製作のドラマ)
4.0
アセクシャル・アロマンティックの当事者二人が、共にベストな生き方を模索していく物語。またその道程で、恋愛至上主義や家族を取り巻く問題にも触れられる。

アセクシャル・アロマンティックという言葉によって、当事者が自らを肯定したり、物語化されることで社会の理解が深められることはとてもいい。そして本作は、アロマンティック・アセクシャルの考証がしっかりされており、脚本も演出も秀逸であると思う。

それぞれのエピソードに関する感想は、それぞれにやっているから、今回私は本作の全体を通して恋愛の別の仕方を模索したいと思う。つまり私はそれでも恋愛を擁護する立場でありたいのである。

そもそも私たちは私以外の他者が誰かを好きになることを経験することはできない。経験できないからこそ、恋愛の意義を宗教的な側面から見出してみたり、文学や映画、テレビドラマなどの芸術作品で描かれるもので疑似的に経験したりするのである。そういったもので恋愛の規範をつくりだし、また実際に私たちが恋愛行為に及んで、みんなが了解できる「恋愛」を産み出している。しかしそれは神の概念にも近く、理想化され誰しもが到達したり所有できないものでもあるのだが。
そんな誰もが納得している(ふりをする)恋愛に疑問が生じたら?その時、咲子のようにクエスチョンになってしまうのである。

そしてみんなが了解する「恋愛」にも政治的な働きかけがある。それを学術的に言えば「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」である。ロマンティック・ラブ・イデオロギーとは、「愛と性と生殖に強固な結びつけを与え、その結びつきが結婚によって正当化される考え方」(p.90)である。これは誰しもに結婚の自由を保障することにもなったのだが、「愛」の名のもとに女性に家事労働を押し付けたり、そもそも恋愛を結婚に帰結させることにもなってしまった。

私が思うに咲子や羽は全面的に恋愛を否定しているのではなく、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに汚染された恋愛を否定しているだけな気がするのである。だからそんなイデオロギーから脱した恋愛を考えることができるなら、咲子や羽の行為も恋愛と呼ぶことができると思うのである。

その手がかりはある。
彼らにもある対象への好きな気持ちや愛はある。咲子は赤いコートに惹かれたり、千鶴に髪を切ってもらうことを好きと言ったり、アイドルを推している。羽はもちろん野菜が好きで、庭に植えた植物を愛でている。
このように彼らは物の次元に属する対象には好意を向けることができる。それはそうだ。もしも一切の嗜好/志向/指向性がないのであれば、食べ物も着る服も住む場所も趣味も全部どうでもよくなってしまうからだ。
そして彼らは物に好意を差し向け、何が好きかでアイデンティティを構築する。咲子が咲子であり続け、羽が羽であり続けるのもそのためだ。彼らは物へのしこう性をもって誰かと代替不可能な唯一な存在になっていくのである。

では彼らの好意は物の次元から人間の次元に移行することはできないのだろうか。私は可能だと思う。
そもそもなぜ彼らは共に生活することができたのだろうか。それはお互いがアセクシャル・アロマンティックの当事者だったからか。違う。それが第一の理由ではない。第一の理由は咲子と羽であったからではないのだろうか。彼らがお互いの当事者性を理解できることはもちろんあるが、お互いを気遣うことができ、生活の水準が一致して、孤独を埋め合わせることができる二人だったからこそ共に生活ができたのでないだろうか。それはどうでもいい誰かでは決してできない。咲子と羽だからできたことである。

これを恋愛行為と呼ぶことはできないのだろうか。
羽のつくる料理を美味しいといったり、咲子の悩みを聞くことを。お互いを気遣い、何かしてあげたいと思い、存在を肯定しあうことを。それをそれぞれの行為に細分化させ、物の次元に帰属させ、好きとすることはできるかもしれない。しかしその行為で束ねられる存在=人間に好意を向けることもできるはずである。しかも恋愛がセックスや子どもをもつこと、結婚に帰結する必要は一切ないのだから。

このような恋愛はもはやみんなの了解した「恋愛」でもないし、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに汚染されたものでもない。別の仕方の恋愛に変容している。しかしそれは妥当性を帯びているし、肯定されるべきものだと思うのである。

以上、本作から恋愛の別の仕方を模索した。冒頭でも同様のことを述べたが、アセクシャル・アロマンティックという言葉によって当事者が不必要な責めを負うことなく、自らの可能性を開くことは大切なことである。そして私の模索が当事者の物語を簒奪することになってしまうことにも懸念をもつ。
だけど恋愛を別の仕方で。それはアセクシャル・アロマンティック当事者だけでなく、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに汚染された恋愛に疑義を唱える〈あなた〉の生き方の可能性を開くことにもなるはずである。

参考文献
友枝敏雄ら編(2017)『社会学の力ー最重要概念・命題集ー』有斐閣

別の話ー家族(仮)についてー
上記では、恋愛のみに焦点を当てたが、本作の「家族(仮)」という考え方もとてもいいと思った。

咲子と羽は恋愛から始まらない家族を「家族(仮)」と呼び、共に生活していく。そもそも家族とは共同体という側面が強かったわけだし、親子でロマンティック・ラブ・イデオロギーに汚染された恋愛がされているわけでもない。だからわざわざ家族(仮)と呼ぶ必要もないとは思うが、それを仮固定的家族と呼んで別の価値を見出してみる。

家族という共同体が地縁でもなく、ロマンティック・ラブ・イデオロギーでもなく取り結ばれるならそれは何か。本作では孤独の解消が挙げられ、また共通の趣味が可能性と提示されている。
それは地縁や「恋愛」より脆いものかもしれない。だからこそ仮固定的に家族になるのは有効な気がするのである。もしかしたら最終話の羽のようにライフスタイルに変化が生じてしまうかもしれない。しかし仮固定だからこそ、変化が起こったらその都度ベストな生き方を模索し、別様の仮固定的な家族を形成できる。これは家族(仮)を解散させず、孤独の解消を達成できるし、今後の別様の家族を考える上で、重要な発想のような気がするのである。