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恋せぬふたりのtntnのネタバレレビュー・内容・結末

恋せぬふたり(2022年製作のドラマ)
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このレビューはネタバレを含みます

「恋せぬふたり」、もしくは「耐えるふたり」とでも言おうか。
最後の二話ぐらいまでは、この世界には自分達のような人間しかいないと思い込んでいる登場人物たちによる、人の性質やプライバシーに土足で踏み込むかのような無自覚で無神経な言葉や行動(もちろんカズくんも)に、高橋さんと咲子さんがひたすら耐えて我慢する。
演出は決して派手でなく、むしろ流石のNHKクオリティ感じなんだけど、台詞の応酬が時にぞっとするほど暴力的に行われる。(となると、もしかしたら作り手は、これらのシーンがそこまでの凶暴性を持っていることに気づいていないのかも、と勘繰ってしまう)
ここを以て、見るのが辛くなってしまう人がいるのもわかる。
咲子の姉の夫の台詞とか、ここまで鈍感なやついるのかと思うが、多分現状はこんな人間の方がまだ多いのだと思う。
アロマンティック・アセクシュアルが、レプリゼントされた意味は間違いなくある。異性に恋愛感情を抱き性交渉をして一つ屋根の下で暮らすという今でも社会を覆っている規範を少しずつ解体していくという展開もよかった。「台詞が説教臭くて面白くない」という言葉は、ジェンダーやセクシュアルティを題材にした作品によく投げかけられるけれども、それって「気にしなくていいマジョリティの特権」の一形態だよなとか思ったり。
ただ、このドラマに批判的な考察を読むと、「レプリゼンテーションとして適切かどうか」も重要な問題なのだなと気づく。(https://cinemandrake.com/koisenuhutari)
このブログでは、たとえば高橋を中心とする男性キャラクターのマスキュリニティへの掘り下げの甘さなどが指摘されていた。そこは、自分は見ていて全く気が付かなかった。
『コーダ』でも思ったけど、マジョリティが「聴覚障害の人が映画に出るようになってよかったね」「アロマンティック・アセクシュアルのドラマが地上波で作られてよかったね」とだけ言って、それ以降何も考えたり勉強したりしないのは、潜在的にはそうした問題をどこか他人事として処理しているし、もっと言えば「我々マジョリティ側がレプリゼントしてやった・レプリゼンテーションを受け入れてやった」と見くびりと自己満足に留まっている行為だと思う。これ全部自分に言ってるんだけど。
現に、『恋せぬふたり』をTwitterでハッシュタグ検索すると、主演俳優の恋愛事情を詮索する気持ち悪いまとめサイトとか出てくるし。
やはり作品を鼻ほじりながら見ただけで何かわかった気になるのは危険で、常に本読んだり意見を聞き続けなくては。
でも、上記のブログに一つだけ反論というか、意見するなら、咲子が陣痛に苦しむ姉に病室で語る場面は、女性同士の連帯が描かれていたような気がするのだけれど。
確かに姉は、それまでかなり酷いことを咲子にしているし言っているので、あのシーンもドラマ全体を包むどこかぼんやりとした「みんな違ってみんないい」的な空気に染まっているが、それでも咲子の「何があっても絶対応援する」という言葉は感動的だった。

主題歌のCHAIの曲に、具体的な言葉は一つもないけれど、本作が伝えたいこと、何なら伝えきれなかったメッセージまで含まれている。
Find your happiness Be kind to yourself

※ただし、自分の性質・性自認・性的指向を示す言葉の後に、半角スペース入れて「おかしい」と検索してしまうほど、追い詰められている人が幸せを見つけることができないのは、他でもなく暴力的に普通を押し付けてくる周りの人間たちのせいであって、そいつらには怒り続けていいよな。
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