ゴトウ

僕の大好きな妻!のゴトウのレビュー・感想・評価

僕の大好きな妻!(2022年製作のドラマ)
3.5
何はともあれ百田夏菜子で保ってるドラマだった。原作マンガの絵柄もかわいい感じで、「サトル〜」とかアニメ声でいちゃついてるところだけ見ていると軽くて楽しいドラマにも見えるのだけれど、「発達障害」というトピックが絡む部分はヘヴィーなトーンを崩さない。悪意や無理解の描写も結構キツくて、それによって傷つく知花も見ていて辛くなる。天真爛漫もウソくさくないのに、陰りの帯び方も尋常ではない。リーダーばかりに女優仕事が来るのも納得ではあるけど、昔ももクロ見てたときもリーダーにあれ?という暗い部分を(気のせいかもしれないけど)感じることはあったので、底抜けに明るい子が演技「だけ」で役柄を演じきっているとも言えない気もする。とにもかくにも、「見た目がイケメンかどうか」「かわいいかどうか」を超えたところにアイドル役者の説得力があるのかなと思いました。橋本環奈ちゃんみたいに綺麗な顔立ちだけど変顔できます!もそれはそれで立派な売りにはなるんでしょうけど。

やたら生々しい人の悪意、無理解描写が、スカッとジャパン的に成敗されることはなく、全部はわかってもらえないけどここは伝わったよね?くらいが落としどころなのもなかなかしんどいけれど、ドラマ全体の「信頼できる人と支え合いつつ今よりも良い世界を作っていけるかも」という着地まで一貫しているので誠実ではある。非・当事者が「障害も個性だから」「その分何かに長けているはずだから」みたいなことを言い始めるのもなかなか今日的で、発達障害にしろクィアにしろ、ワードだけが浸透していく時期ならではの無神経発言という感じ。「こんなこと言うとセクハラって言われちゃうカナ⁉️😅」的な。その発言が親やパートナーから出るものならなおさら苦痛は大きいはずで、ついには同僚から「効率が悪い」「足手まといだ」と罵倒される段に至って、初めて知花に抑うつ症状が表れるというシリーズ構成もスマート(実話ベースだからかもしれないけど)。社会に適応していく=労働を主軸に生活を組み立てていくことになれば、それは知花を支えていた悟や医師、あるいはカフェのコミュニティとの時間が取れなくなっていくことを意味する。同僚から浴びせられる心無い言葉も、彼らの心根が邪悪であることを意味するものではなく、彼らもまた本社から課せられるノルマに抑圧されているところも重要。生活を維持するために、過労で倒れない範囲(ギリギリ)に収めつつ十分な賃金を得るための労働を行う必要がある。その中では「コスパ」「タイパ」が悪いこととして切り捨てられていくのは当然の結果であって、発達障害のある知花の存在、知花とともに働くことを「不要なコスト」とみなしているのは、大局的にはアパレル店の一人一人ではなく社会。「資本主義が悪い」「ネオリベ社会が病んでいる」というのは簡単なのだが、現実的にそのシステムから抜け出すことも難しい。

作中で一つの光のように描かれているのは、集団がより大きなシステムと対峙するときに先頭に立って(ささやかにでも)抵抗できる者の存在で、すごく雑に表現するなら「中間管理職」。アシスタントの長である佐竹や、本社との交渉を担う店長がほんのちょっとだけ無理をすることによって、ほんのちょっとだけ隙間が空く。相対的に弱い立場にある者の居場所を、今の社会の中に確保するためにできるのはこれだけであるというのは、希望でもなんでもない。しわ寄せとして店長は過労で倒れるし、佐竹は肉体労働のアルバイトを掛け持ちしながらさらにタスクを増やしていく(いずれ無理が来ると思う)。マンボウ先生のような暮らし、あるいは連載が決まった悟のような暮らしは知花の居場所を作り続けることができるかもしれないが、それができるのは一握りの勝者だけ。まして、悟が連載を勝ち取ったのは妻の知花の発達障害にまつわるエピソードを描いたマンガであって、当事者間でどのような合意があろうともある種の「切り売り」であることには変わりがない。クリエイティブなフィールドにおける成功によって居場所を確保するというのは「知花には発達障害がある分才能があるはずだから」を反復していると言えなくもなく、また特異な体験の切り売りやプレゼンテーションによって「認められる」のは、そのまま就活の面接のために「ガクチカ作り」に励んだり、「どん底からの成功」のようなストーリーを伴った情報商材ビジネスが支持を得ることと本質的には同じようにも見える。「みんながもう少し余裕を持って寛容になる」以外のサバイブは結局、現状追認や迎合ということになってしまう。自助努力によって知花のような人間たちが抑うつや無理解を克服することには限界があり、労働の形態にある程度の裁量を持つ管理職には多少の力があるが、やはりそこにも限界がある。知花の置かれた環境は、「理解のある彼」や「理解のある上司」や「信頼できるコミュニティ」に囲まれていて、他の発達障害当事者と比べて相対的には恵まれているとすら言えるものであることは、作中でも指摘されるところではあり、それを自覚してなお明確にドラマ→現実へと持ち込めるような希望はない。その辺りは明確に意識的だからこそ、漫画家(一握りの成功者)とかアパレル(扱う品は消費社会そのもの)とかが忍ばされているのでしょう。喘息持ちの子が野球部に参加するのを諦めるのも同じで、気持ちだけではどうにもならない部分がある。練習中に発作が起きたり、あるいはさらに重大な事態が起きたときに顧問の先生は責任を負えるのか。部活の顧問を持つこと自体が、教員の過重労働の要因でもある。

要するにヘヴィーすぎて、百田夏菜子がいないと見ていられないのです。『ジョーカー』や『ニューオーダー』みたいにしようがこのドラマみたいにしようが同じで、現状の社会は詰み状態と言っていい。個人レベルの「優しさ」でどうにかなる段階ではなく、知花自身も言うようにみな「自分のことだけでいっぱいいっぱい」。もっと世界が良い場所になるように、というラストシーンの「祈り」は、同時に万策尽きたという敗北宣言でもある。店長や佐竹よりもっと大きなシステムとの折衝を行えるのは、やはり政治や行政なんじゃないかと思うのですが、それも「なんでも社会のせいにするな!」と自己責任に回収されてしまうのでしょうかね。

エンタメ性と問題提起が両立していたのかはわからないけれど、主演が夏菜子ちゃんじゃなかったら最後まで見てなかったのは確か。かわいかったら他人のこと応援できるのよ。ほんとカスだなぁ。どうにもならないね。その上で、「誰が言うてんねん」を踏まえた上で言うと、夫婦を演じる上でスキンシップの場面があるかないかでやきもきするモノノフさんや、それに応じるかのごとく毎回寸止めで妨害されるキスシーンみたいな演出は百田さんの女優としてのキャリアの足枷でしかないと思います。アイドルってそういうもんかもしれないけど。
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