YasujiOshiba

光る君へのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

光る君へ(2024年製作のドラマ)
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平安時代にはちょっと興味がわく。何にも知らないから、ちょっと追いかけてみようかな、と思う。

それからアップルのフリーボードの使い心地が良いので、これで少しまとめながら見れば、面白いかな。

まだ第一回だけど、なんとまひろの母の国仲涼子がグサリとやられて、すでに歴史ファンタジーに突入。そうはいっても、史実とされる歴史に忠実な部分もあるわけで、そのあたりを腑分けしながら楽しめれば良いかな。

ただし、楽しめるかどうかは吉高由里子と柄本佑が登場してからだな。脚本は大石静。この前のクドカンとやった『離婚しようよ』はおもしろかったから期待。歴史とファンタジーをどんなふうに融合させてくれるか。

1/30
4回までを見る。現代劇として見ると面白いかもね。4回目はこんな場面がよかった。倫子(黒木華)のもとに間者として派遣されたことに憤るまひろ(吉高由里子)がこんなことを言う。

- 「論語」も「荀子」も「墨子」も人の道を説いておりますのに学問とは何のためにあるのでしょう。

これに親戚のおじさん藤原宣孝(佐々木蔵之介)が答える。

- それは父上も人だからじゃ。

そうなんだよな。「人」というのは理屈では動かない。そういうまひろだって、間者なんてと嫌がっているくせに、倫子姫のことが気になって間者となっているという展開。

身分が人と人を分けて束縛し、、理屈が人の倫(みち)を説く。けれども人は、身分を超え、理屈に反して動く。人はつまるところ人によって人のために人して動く。そんな情念のようなものの働きが「源氏物語」にあるのかないのかは置いておいて、大石静の脚本はそこを描こうとする。

それはたしかに人が人を動かす権力闘争なのだけど、同時に、人が人に惹かれる情念の働きに通じてゆく。そのあたり、まひろの吉高と三郎/道長の柄本佑がいい空気感を醸し出してくれて好感。

それから第4回目の圧巻は「五節の舞(ごせちのまい)」。天皇が皇位継承に際して行う大嘗祭ののちに饗宴として行われる豊明節会(とよあかりのせちえ)に際して、4人から5人の舞姫たちが舞を踊るもの。雅楽のなかでは唯一女性が舞う。「舞姫は公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人が選ばれ、選ばれた家は名誉であった」というのだけど、なにしろ酒の席だから、即位した天皇にみそめられば、性的関係を結ぶこともあり、そこで天皇と貴族との関係が強化されるという催しでもあったらしい。

その五節の舞に呼びだされた源倫子(黒木華)は、こんどの天皇とは結ばれたくないと舞うことを避け、かわりにまひろ(吉高)が舞うという設定。これはなかなかよいアイデア。だって主役が超豪華な衣装をまとって踊るのだから、ちょっとしたクライマックス。しかも、踊りながら母殺しの道兼(玉置玲央)の傍にあの三郎/道長(柄本佑)がいることを発見して驚くという演出もうまい。

ベタだけど、これはこれでドキドキする。なにしろ歴史的には、道長が倫子と一緒になるというのが流れ。その間に立つのがまひろ/紫式部(吉高由里子)なのだけれど、そのあたりはファンタジー。しかも猿楽の直秀(毎熊克哉)なんていう義賊のようなヤツもからんでくるのだから、楽しくなってくるよね。

悪くないわ。もう少し見ていられそうだ。

2/22

第7回を見る。「打毬」(だきゅう)って知らなかったな。「蹴鞠」じゃないのね。以下、ウィキより:

「馬に騎った者らが2組に分かれ、打毬杖(だきゅうづえ。毬杖)をふるって庭にある毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う。現在は、宮内庁と青森県八戸市の長者山新羅神社、山形県山形市の豊烈神社にのみ伝承され、長者山新羅神社と豊烈神社では騎馬ではない「徒打毬(かちだきゅう)」も行われる。
 紀元前6世紀のペルシャ(現在のイラン)を起源とし、日本には渤海使から伝えられたもので、ペルシャからヨーロッパに伝播してイギリスで近代化されたポロとは同源とされる」

それにしても、猿楽の直秀(毎熊克哉)が打毬に参加しちゃうのね。フィクションならではの面白さ。男たちの晴れ姿を女たちがキャーキャー言う。わかりやすい。

道長が宿直(とのい)のときに、直秀を弓で射たのだけれど、そのときのグサリと矢が刺さる感覚の描写がよい。記憶の中で、肉の中にぐさりと矢が刺さる感覚を思いだす。その柄本佑人の表情。

人を殺すって、その嫌な感覚のはず。貴族でもそうだったはずなんだよね。それがだんだん慣れてゆく。慣れて殺すことをなんとも思わなくなるようなトリックがある。あいつは敵だとか賊だとか、テロリストと言えばよい。

そういう相手の場合は、人間ではなく動物と同じ扱いになる。ここに、人類外的なマシンの働きがある。けれど、そのマシンが空転するとき、ぼくらは殺しにゾッとする。目を背けたり、みないふりをしたり、見てもよくやったと騒ぎだてるようになるところでは、マシンはきっちりと働いているのだ。

だから道長の矢が肉にぐさりとささった感覚への「おぞましさ」の感覚を描いた脚本はよい。まだマシンが働いていない状態でありながら、その感覚をマシンに抵抗して保持しようとしてさえみえるからだ。
YasujiOshiba

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