ゴトウ

初恋の悪魔のゴトウのレビュー・感想・評価

初恋の悪魔(2022年製作のドラマ)
4.4
一話を観終わったときの、「これはどう観ていたら良いんだ…?」という戸惑いが懐かしい。そこで切った人も多かったみたいで、万人受けするものではなかったかもしれないけれど、自分にとってはとても思い出深いドラマになった。マスクや何かが出てくるわけではないけど、コロナも含む多分に今日的な示唆も多いように思えて、節々で泣かされた。何も情報入れずに見ることをオススメします。以下多少ネタバレあります。

事件が起きた時間の再現VTR的な空間に入り込んで事件の真相を探る4人、問題の根を社会の病理に拡大しようとする小鳥や、やたらに情緒的に寄り添おうとする悠日の姿を「コンテンツも社会問題も自分の嗜好に合わせて勝手に『考察』しようとするやつらへの風刺だ!」と「考察」(皮肉だけどそうじゃん)している人を見た。後半は四人で仲良く机に向かう場面もなくなってしまったのでなんとも言えないのだけど、そこまでメタいことをしていたというよりは、起きたこととそれに対する感情や行動をできるだけスマートに「切り分けよう」とする姿勢の種を蒔いていたのかな?という印象。それが最終話、鹿浜がハサミを振り下ろすか振り下ろさないか…のところに繋がっている。「真相を解き明かす」とはどこまでを指すのか、ごくざっくり考えても下手人が誰か/どんな方法か/どんな動機か…みたいなレイヤーが考えられるわけで、そうした答えのない問いに「マーヤーのヴェールを剥ぎ取る」ことで接近していこうとする試みが10話続いていたのではないかと思える。

最終話に関してはダブル主演というよりはほとんど一人で主役を張っていた林遣都が演じる鹿浜、クライマックスの星砂との別れの場面が泣かせる。一度は外の世界と繋がりかけたがそれが砕かれたという過去から、自分の内面に閉じこもり他人を遠ざけていた男。気がつけば鬱陶しいほどに周りに人が集まっていた…というのはシンプルにあたたかい展開だし、それをベタと思わせずにさらっとやるのも巧み。一人で暮らすには大きすぎるような家に続々と人が出入りするのは、いま失われつつある(もしくは、少なくとも見えにくくなっている)「場」の意味を、リサと星砂の過去の描写ともあわせて投げかけているように思われる。擬似的に犯行現場に没入したり、ミニチュア人形で思い出を振り返るのは、仮想空間における人とのつながりや「あたたかさ」の可能性を問うているようにも。

そこがミニチュアでなく現実の自分の「家」だからといって、必ずしも安息の場所とは限らない。馬淵親子の関係性はいかにも「毒親」「アダルトチルドレン」みたいなワードを連想するものだし、署長親子は子が送信するメッセージの通知音一つで父親が行動を強制されてしまう。そしてそうした悪意や無理解によって、リサや鹿浜たちのささやかな安息の場も奪われていく。一方で、リサと星砂とか小洗先生と星砂とか、血縁や共有した時間の長さに依存しない信頼関係(あるいは擬似家族関係?)も確かに存在しうる。「会えなくても遠くない人はいる」というのはそのままコロナで変わってしまった世界のことを言っているようでもあり、もう二度と会えない人(悠日にとっての朝陽や、鹿浜にとっての洋館の主人であり、また関わってきた全ての人にとっての「蛇女」であり…)ともう二度と会えないことをどう受け入れるか?という問いに対する一つの答えでもある。悠日が死んだ朝陽と通話している「フリ」で(これも事件の操作をする時と同じようにある種の没入)言えなかった本心を吐露する場面と合わせて、会えないことやもういないことを受け入れる過程が描かれるのも印象深い。

同じ電話でも、朝陽のそれと全く異なる役割を果たすのは署長の携帯電話で、息子の頼みを受けた親の手助けが身勝手で凄惨な方向に向かっていく。この破綻した関係とそれに伴う署長の葛藤を、最終話の耳障りな通知音で体感させられる。指先一つでいつでも繋がれて、それでいてどこまでも独りよがりな暴力しか招かない関係性。彼らのせいでもう繋がれない朝陽と悠日、あるいは「蛇女」と鹿浜やリサ、殺された人々と残された人々。あり得るべきではないことが指先一つで動き出してしまう。

「指先で送るメッセージ」とくれば、四人がカラオケで「CHE.R.RY」を歌う名場面は外せない。人と繋がるとはどういうことか?病室で手を握り合う星砂と悠日とは対照的に、「蛇女」と鹿浜はもう二度と触れ合うことはない。そこに「蛇女」だった肉体があるとしても、また仮にそれに触れたとしても、それは別人で悠日の恋人でいるところの星砂であって「蛇女」ではない。単純な死別よりも苦しい別れに際して、「僕は大丈夫です」と言えるまでになった鹿浜。ここは特にボロボロ泣いてしまった…。今後二度と会うことも触れ合うこともない二人は、「この体は私のものではない」と蛇女が言っていた通りキスすらすることはなく、ただ夜空の下でたくさんおしゃべりをする。まるで明日も同じように会えるかのようにたわいなく移ろう話題は、それぞれ関係しているようでもしていないようでもあり(まるでこのドラマみたいに!)、それでも唐突に終わりはやってくる。こんなロマンチックで悲しいシーンがあるか。背中を向けたまま手を振るのは蛇女なのか星砂なのか?もうボロ泣きです。「恋しちゃったんだ たぶん/気づいてないでしょう?」から始まるサビの歌詞、途中で星砂が鹿浜と悠日どちらの恋人なのか?という展開になったのもあって「恋しちゃったんだ たぶん/気づいてないでしょう?」の方に気を取られて見ていたのですが、思い返せばずっと「指先で送るキミへのメッセージ」の話だった。星砂の顔を撫でながら、表に出てきていない蛇に語りかけるリサ。目を覚ました星砂の手を握って離さない悠日。「あなたのもの(つまり星砂ではなく蛇女だけのもの」として鹿浜が教えたリンゴの剥き方。自分が消えていくかもしれないと悟った星砂が残した悠日への置き手紙。直接は話しかけられない小鳥が渚に渡した事件のヒント。そして、息子が署長に求める助け。思えば全部が「指先で送るキミへのメッセージ」でありました。

人と人とはどうやってつながるのか?寄り集まらなくてはつながれないわけではないし、かといって指先一つでいつでもつながれるわけでもない。生きているかも死んでいるかも、手を取り合っているのか足を引っ張りあっているのかもわからない。絶体絶命のピンチに鹿浜がその指で選んだのは、断ち切るための道具であるハサミではなく、手錠だった。それは縛り付けるためのものなのか、つながるためのものなのか?「恋心と殺意の違いがわからない」と語っていた男が、目の前の殺人鬼に対する殺意(ハサミ)よりもそれまで学んだ人間への愛、あるいはつながりを求める営み(手錠)を取った場面と僕は受け取りました。

…と思い出しながら書いてみると、どう観ていいかわからないほど散らばっているように見えたいろんな要素が、実は全部一つにつながっていたような気もしてくる。悪と戦っていないときのヒーロー、デスゲームが開催されていないときの参加者、事件が何もないときの探偵をたっぷり時間をかけて描くような挑戦的な作品だったのかも。単純にカラオケヒットナンバーとして出てきたかに見えた「CHE.R.RY」がとても感動的な意味を持ち始めた最終回、ここまで観てきて本当に良かったなと思いました。蚊帳の外っぽい時期もあった小鳥さんも、勇気を出して行動できる人に成長していて感動。主演四人も演技派揃い、田中裕子や満島ひかりら坂元裕二作品常連組も贅沢使い、大好きな安田顕の怪演も見られて大満足でした。大役をもらった菅田将暉の弟・菅生新樹も、「菅田将暉の弟」が外れるくらい今後活躍できると良いね。
ゴトウ

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