デパルマ

初恋の悪魔のデパルマのレビュー・感想・評価

初恋の悪魔(2022年製作のドラマ)
4.0
ひとりぼっちで世界に絶望した私たちがジョーカーにならないために。分かりやすさやカタルシス、エモさから逃れるような脚本と演出、オフビートなくせにコメディシーンになると大袈裟になる俳優たちの演技が絶妙にマッチしているのかしていないのか終始こちらをはぐらかし続けるような不思議で軽妙なタッチが特徴。事実ではなく自分の信じたい考察の中だけを突き進むビジランテの危険性が描かれるのか、殺したいほど憎んだ人間にも私達と同じようにその人にとっての何らかののっぴきならない事情があるのだと言いたいのか、最終回までついに何が起こるか分からなかったが、結局示された答えはそのどちらでもなかった。それに結局あの青年は動機なきシリアルキラーだったのか、いじめっ子が保身のためにやむを得ず殺人を行ったのか、こちらも煙に巻かれてしまった。彼の本当の物語は語られぬまま終わった。思えば、菅生新樹の兄・菅田将暉は「MIU404」で凶悪犯クズミを演じたが、彼は自分の半生を物語化されることを拒否した。クズミはただ悪魔のような存在としてドラマに存在していた。しかし、私たちは実際の犯罪を安易に物語化してしまう。ちょうど1年前には、京王線で無差別刺傷事件を起こしたコスプレ男を指して「悲惨な過去がないので我々のジョーカーを名乗るべきではない」などという呟きが相次いだ。さて、最終回では「狼よさらば」のチャールズ・ブロンソンのように、主人公の鹿浜が初めて愛した人を殺したかもしれない男を自らの手で殺そうとする。真相なんかどうでもいい、悪魔を殺せるのは悪魔だけなのだ、とでも言うように。しかし友達から発せられた「生きてます!」の一言で彼は悪魔にならずに済んだ。まるで「ザ・バットマン」でバットマンがキャットウーマンの復讐を止めたように。だが、もしその言葉が発せられなかったらどうなっていただろう。司会者を撃ち殺した「ジョーカー」のように彼も暴力による復讐を選んだとしたら。自ら法によらない制裁を下した鹿浜の物語は、声の大きな人達に勝手に考察されて「民主主義への挑戦」としてまとめられたり、自分たちの描いた絵に事件の方を合わせようする警察側に肌触りの良い物語として処理されたり、無責任な傍観者達の「ジョーカーにはなれない」でネットが埋め尽くされたかもしれない。近年、社会に絶望し、世界を変革するために悪を裁くビジランテになる者、全てを諦め電車に凶器を持ち込むニヒリストになる者が後を絶たない。摘木は言う。「大事なのはちゃんの自分のままでいることだなって」と。鹿浜は言う。「世界中、たくさんの暴力はあるし、悲しいことはあって。僕が生きてるうちにそれがなくなることはないかもなって思います。〈中略〉大事なことは世の中はよくなってるって信じることだって」と。この言葉は、今絶望しかけている私たちにとって綺麗ごとのように聞こえる。馬淵は言う。「綺麗ごとは泣いてきた人の言葉。初めは綺麗じゃなかった。綺麗ごとは、沢山の人が泥を拭いて、涙と血を拭いて、綺麗になった言葉」だと。私たちは、このドラマの言葉を信じて、世の中はよくなってるって信じて、生きるしかないのだと思う。そのことを、世界は素晴らしいってことを、リンゴの剥き方を知らないあの人が、別れ際に振り返らず手を振ってくれたあの人が、教えてくれた。世界に絶望したひとりぼっちの私とあなたのために。
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