まぬままおま

エルピス—希望、あるいは災い—のまぬままおまのレビュー・感想・評価

5.0
冤罪事件の解明というサスペンスでありながら、テレビ局の悪しき実態も浮かび上がらせる傑作。

主人公・拓朗には向上心がなく、「ママ」に保護される現代の若者を投影させている。しかし物語を通して、彼は信念をもって報道しようとする人物へと変わり、凡庸な悪になりかねない私たちにも変われる可能性が示唆されている。またアナウンサーの浅川についても、拒食症という身体の不調を、彼女の降格といった実存的不安だけではなく、不条理な事態を飲み込めないという社会への拒否としても描いているのが素晴らしい。
さらに二人の描写の特徴として、彼らを聖人として捉えないこともある。拓朗は、ボンボンガールズのあけみちゃんに好意を寄せて、制作現場に私情を持ち込むし、浅川も元彼の斎藤に優しくされたらセックスしてしまう。もちろん彼らにも、不正を正したいという気持ちはある。けれど、誰しもプライベートまで公正に生きているわけではない。だが的確な人物描写であって、彼らのように私たちも絶対的な善や悪ではない。むしろ両者の性質を備えており、信念に照らした行動によって、どちらにもなり得る。これが現代社会-人の性質であり、現状を劇的に変えられない要因でもある。だがこのことは私たち一人一人がエゴを抱えながらも、善い働きをすれば現代社会-人を変えられることも意味する。

結局のところ私たちの幸福とは、大切な人と美味しいご飯を食べることになるのかもしれない。当たり前だが食べないと私たちは死んでしまうし、食べられれば生きられる。この幸福を描くために最近のテレビドラマや映画は、家族といったミニマムな世界の変わらない日常に焦点を当て、その変わらない様を肯定しているように思える。それも大きな物語が失墜し、官僚制化された社会で、社会の変わらない様と停滞ゆえの失望も起因しているだろう。だがこれも当たり前だが日常は社会とつながっている。変わらない(ように努める)日常もまた社会の影響を多分に受けている。だから社会の悪しき点を改善しなければ、日常も肯定できなくなってしまうはずである。そうしなければ私たちは大切な人と美味しいご飯を食べることはできないのである。
このことを本作は十全に示している。私たちが日常の幸せを求めるためには、社会に目を向け行動をしなければならない。このようにテレビドラマという娯楽性を多分に含みながら、真理や理想を描こうとする本作は、やはり傑作と言わねばならない。