長屋もの、現代にすると復興仮設住宅が13年経ち、ファンタジーにされる。
フィクションでのジェントリフィケーションが今作の最も根深く接続する問題だろう。
「まともな人は出ていく」街。
それは自立と福祉が拮抗している街で。
震災の影響を人情長屋にしたアイデアと筆力は確かに最後まで見せるだけの力がありおもしろかったけど、これをおもしろがって、楽しんでいいのだろうかと、呵責が生まれた。
その呵責こそがクドカンが産みたかったものなのだろうと思って観ました。
私はこの物語を楽しめるほどに、震災復興を傍観・他人事で観ていたのだと反省した。
しかしながら、この物語にある社会にある人の力やぬくもり、割り切れない、倫理の外にある人間性には信頼がおける。