ゴトウ

仮面ライダーオーズ/OOOのゴトウのレビュー・感想・評価

仮面ライダーオーズ/OOO(2010年製作のドラマ)
4.0
放送中の3.11の影響を受けて話の方向性も変わったらしい。実際に消費者の「欲望」を大いに刺激したであろうキーアイテムはメダル。誕生と終わり、生き物とモノ、メダルの表と裏を連想せざるを得ないテーマを伴った物語はしかし、明確に白黒をつけることのない結末で幕を閉じる。隣の誰かと手を取り合うことで「どこまでも届く手」を持つという子ども番組らしいメッセージが、「あれを手に入れる代わりにこれを諦める」という取捨選択の否定=欲望の無条件な肯定に繋がるのが非常にエキサイティング。いわゆる「ライブ感」で方針転換した部分も大いにあるだろうけれど、キャラクター人気と合わせて結果的に歴代屈指の人気作品になったのもうなずける。と同時に、かなり危ういバランスの上で成り立つ作劇でもあったので、10周年記念で汚点を残したのがとても残念。「良き終わり」はどこへやら…。

ヒーローの異常性がこれでもかとクローズアップされるのがやはり目につくところで、欲のない異常者(だからこそ変身しても力に溺れない)として描かれる主人公が怖い。自分の命をなんとも思っていないことについて、きちんとした大人である伊達(決してめちゃくちゃ強いわけではないけどまともな人、という2号ライダーの塩梅も良い)に再三指摘されたり、根本的には他人に関心がないとしか思えない空虚な優しさを見せるなど、振る舞い自体はザ・ヒーロー、ザ・主人公であるだけにそもそもの「ヒーロー」という存在を異様に感じさせる。メダルの塊であるヤミーやグリードとの戦いも、自身がグリード化したり、アンクに人間性のようなものが芽生え始めてからは同族殺しの様相を呈し始める。「改造人間による同族殺し」に始まる仮面ライダーの戦いは、今作では「敵と同一のパワーソース(メダル)を用いた殺し」に置換され、やがて後天的にグリード化した映司による同族殺しに変わっていく。濁った世界の中を生き、満たされない渇きを抱えた哀れな化け物であるグリードは、一様に映司によって壊されていく。欲望を持たない空虚な器として主人公の肉体が人間でなくなっていくなかで、「都合の良い神様」として扱われることも構わずに、意志の力でメダルの暴走を抑え込んで戦うオーズ。「脳改造前に逃げ出した」という初代ライダーの設定を思い出させるものであるし、終盤での「大きすぎて見えないが誰より大きな欲望を持っていた」という最初の最初の部分への回帰の仕方は『龍騎』っぽくもある。結局は一人で事態に対処し続けた(そうするしかなかった)『龍騎』に対して、よりストレートに誰かと手を取り合うことの可能性を提示する前向きな作劇になったのは震災の影響か?

「オーズぅ…オーズぅ…」と誰かもわからない、「この事態をなんとかしてくれる存在」として無責任にヒーローの名を呼ぶ市民のくだりとか、前作『W』を含むヒーローの否定というか、子どもにヒーローの名を呼ばせるヒーローショーの悪趣味なパロディのようですらある。ことさらに「私には何もできない」と自分を責め続けるヒロイン比奈は、強力なヒーローに命運を委ねざるを得ない多くの市民の心情を代弁しているようでもある(ギャグとして挟まれる怪力の描写が一般人のそれを大きく超えたものではあるのだが)。最終的に彼女がたどり着く「誰かと誰かが手を取り合うための仲立ちをする」という戦い方は、なにも世界の危機ではなく日々の実践、生き方の選択肢の一つとして非常に切実で感動的。あくまで最初の頃と言葉遣いは変わらないまま、「お前を選んだのは俺にとって得だった」と心情を吐露するアンクのセリフも泣かせる。損得勘定は冷淡さの象徴のように言われることもあるけれど、誰かと手を取り合うことで幸せを感じることができるならそれを「得」と思ってもいいでしょうという。

ヌルッと現れる属性バトル要素、どうやって意識を宿したコアメダルを正確に砕いているのかとか、かつてのオーズ周りのあれこれとか、ちょっと首を傾げるような部分もあるにはある。今となっては何を話すにも、それらの説明不足を補完するばかりか、より不可解なものにした『復活のコアメダル』が悔やまれるだけだな…。
ゴトウ

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