ゴトウ

仮面ライダーWのゴトウのレビュー・感想・評価

仮面ライダーW(2009年製作のドラマ)
5.0
平成(以降)ライダーの最高傑作との呼び声も高い作品。YouTubeのリバイバル配信で何周目かの再視聴。やはり素晴らしかった。10年経っても続編企画が動き続けるのも納得。現行最新作(もう終わりかけだけど)の『リバイス』とバディもので被っているので、皮肉にも『リバイス』のダメな部分が浮き彫りにされ続ける半年間でもあった。『ディケイド』を経て秋スタートとなってのシリーズ再始動、『クウガ』同様に「時代を0から始め」る気合の入った作品だったのだろう。ガイアメモリは喋りまくり、歌いまくりの変身ベルトの系譜に入るのかもしれないけど、近年のベルトと比べるとかなりおとなしい。「ジョォカア!」(立木文彦ボイス)とかは騒がしく感じてたような気もするけど、慣れって恐ろしい。面白くないライダーに慣れないように、過去の名作見直すのも大事ですね。

今作における「仮面ライダー」は街を守り、街の人々に親しまれる『スパイダーマン』的なヒーローの呼び名。児童誌的、「ライダー図鑑」的には「ベルトを用いて変身して戦う者」はみなライダーだが、今作では「仮面ライダー」を名乗る敵が何度か現れ、その度にWがそれを否定する。「人間はみんなライダー」=「ライダーはみな(エゴにまみれたただの)人間」として描いた『龍騎』や、単純に装甲服の呼び名として「仮面ライダー(マスクドライダー)」を扱った『剣』や『カブト』など、意外と平成ライダー初期では触れられなかった「『仮面ライダー』とは何か?」が物語の本筋に据えられる。力なき市民の声援を受けて街を守る者としての仮面ライダー、敵と同質のパワーソースを用いながら悪を討つ者としての仮面ライダー、悲しみを背負い、涙を仮面の下に隠して戦う者としての仮面ライダー。劇場版を含む強敵三連戦(エターナル・テラー・ユートピア)は「仮面ライダー」「ヒーロー」とは何かという問いへの本作なりの解答の連続で、その意味では原点回帰的というべきかも。『クウガ』以降の作品がお約束否定、昭和ライダー否定からスタートした側面があるがゆえに、マフラーをなびかせて「仮面ライダー」を堂々と自認するヒーローは「逆に」新鮮な新・新生一号と言えるでしょう。

きちんとキャラも立っていて、しかも(橘ギャレンとかモモタロスを狙って作るような)トンチキなキャラ付けが成功しているだけでもない。どういう人間がどういう風に変化していったかがわかるというのが良い。いまや押しも押されぬスターとなった菅田将暉が演じるフィリップは、当時16歳の高校生のよく言えば素朴、悪く言えば大根気味な存在感が、作中でさまざまな体験を通じて人間性を獲得していくフィリップと重なる。今作に限った話ではないが、一年の長期放送の特撮ものが若手俳優の登竜門たる所以ですね。サブライダーのアクセル(テレビシリーズに継続出演する仮面ライダーがWとアクセルの二人しかいない!少ない!)こと照井竜も、初めから街を愛し街のために戦う翔太郎との対比が効いている。風都における「仮面ライダー」のあり方を自覚し、街を愛するようになるまでを主役と並行して描くくらいしているからこそ、スピンオフで一本作れたり他のライダー作品に客演したりという活躍も続くのでしょう。ガイアメモリという同じパワーソースを用いていながら、単純な暴力の行使者ではないことの理屈付けとしても機能しているし、メモリの使い分けのWに対して戦術の多彩さで見せるアクションも見応えがある。半分ずつでカラーリングが違うWも自分自身がバイクになるアクセルも、今見るとおとなしいデザインに見える。最終回では「この街が汚れて見えるのはお前の心が汚れているから」と若菜に説教するまでに至った照井警視の台詞にも泣かされる。

「この人はこう動くであろう」という積み重ねがあればこそ退場劇にも重みが出るというもので、フィリップはもちろん、園咲家や井坂の退場がどれも名場面。改めて見てみると霧彦が実は街を愛するいい男的な設定はちょっと唐突にも思えるけれど、ライバル的なポジションのキャラクターが街を愛するドーパント→街を憎むライダーに変わるメリハリは良い。ドラッグっぽい描写のガイアメモリを子供に売るか売らないか、のくだりも悪党なりの矜持とそれゆえに組織に消される流れはマフィアものっぽくもある。街の情報屋など必ずしもクリーンとは言えなさそうな人々とも警察関係者とも仲良くしつつ、個性豊かな依頼人のために華麗に事件を解決するというフォーマットも綺麗で安心して見ていられる。2話完結構成をやるやらないでも論争が起きているけど、今作に関しては間違いなくうまくいっているのでは。同時に、前後編構成ではない最終話も結構攻めた構成になっている。風都タワーが再建されているかいないかに注目すればわかるのだけど時系列があえて混乱させられていて、翔太郎を見張っているのが新たな街のならず者組織なのか、若菜なのか、はたまた誰か別の人間なのか?がわからないまま縦軸で引っ張られつつ、仮面ライダージョーカーの活躍と依頼人の少年と翔太郎の交流も描かれる。翔太郎の子供時代を演じた子役に翔太郎と真逆の性格の子どもをやらせるのも、度々描かれてきた「子どもを大人に(あるいは半熟をハードボイルドに?)育て上げる場所」としての街で世代が入れ替わっていくことを示唆するようで胸熱。自分の弱さと向き合うことと開き直って他力本願になることとの違いとか、信頼できる相棒がいることとなんでもお任せして甘えられる相手がいることとの違いとか、一年間やってきたことのさらい直しとしても見られる。そう簡単に人の悪意が消え去ったりはしないということでもあるし、ハードボイルドを「辛くても悲しくても一人で踏ん張る」と子どもに説明する翔太郎のもとについに現れるフィリップ…の場面も感動的。よく考えたら先週までも出てきてたんだけど、一年間フィリップなしで踏ん張ってきた翔太郎を想像させる仮面ライダージョーカーの活躍もあって泣けてくる…。

前作『ディケイド』がタッチパネルのスマートフォンっぽいアイテムを登場させた一方で、今作でのメモリガジェットはガラケー。今ほどではないにしても、確実にインターネットへの接続(「ググる」行為)が誰にでも身近になりつつあった時期なのでしょう。フィリップが事件解決に用いる「地球の本棚」は間違いなくウェブ検索がモチーフで、「検索小僧」「データ人間」「人の気持ちがわからない」と言われ続けるフィリップの成長も物語の主軸の一つ。知識や情報なんてちょっと検索すれば持って来られるというとき、その情報を使ってフィリップがどう人と関わるのか?は番組を見ている子どもたちがどう育っていくのか、あるいは今を生きる人々がどうなっていくのかに対する祈りのようでもある。で、「力そのものより、使い方が大事だ」というのは仮面ライダーもショッカー怪人も同じ改造人間という構図に帰ってくるわけですよね。「人の心」「人のあたたかさ」みたいな言葉、令和の今だと「コスパが悪い」と言われそうだけど…。
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