オジサン

仮面ライダーV3のオジサンのレビュー・感想・評価

仮面ライダーV3(1973年製作のドラマ)
5.0
仮面ライダーV3は前作の仮面ライダーの正当な続編で完璧に地続きの世界観となり、製作当時ではまさか半世紀にも渡って子供向け番組のシリーズが続くだなんてにわかには信じられないという時代です。

ここがまた特殊な立ち位置の作品で、シリーズでも大人気の仮面ライダーBLACKと仮面ライダーBLACK RXとも違っていて、BLACKもRXも変身するのは南光太郎なのですが、敵組織のゴルゴムとクライシス帝国にはなんの接点もなく地続きの連続性とかは主人公が続投というそれはそれで異例ではありますが、
V3はシリーズレギュラーキャラクターの立花藤兵衛は続投、敵はショッカーからの大首領で本作の敵組織のデストロンが最後の組織だと断言していて。

つまり認識的には仮面ライダーV3は主人公を取り替えただけの仮面ライダー1号と2号の続きと捉えて大丈夫です。
ヒロインや少年仮面ライダー隊のいわゆる子役キャラたちが変わるのも昭和仮面ライダーでは日常茶飯事です。

もっというと作品の脇を彩るSEというちょっと気持ち悪いオタク目線の部分でさえ続投されます。
ドラム缶を思いっきり叩いたようなドゴォッというような打撃音とかですね。

まあ、そこら辺はこれは凄いことなんだよって主張しているように見えるかもしれませんが、それ以前にそういう前例みたいなものがあまり無かったようなもので、特に仮面ライダーシリーズでいえばV3は二作目ですから正直大したことではないというか、
それを踏まえた上でシリーズ最高視聴率を叩き出して第二次怪獣ブームの通称変身ブームの最高潮の盛り上がりを担った作品が仮面ライダーV3なのです。

では、だからといって凄い革新的な作品なのかと問われたら昭和の仮面ライダーの決定版というか、前作仮面ライダーの流れを汲んでその次作品として完成度を高めるためにいろいろなイベント回というのが定期的に挟まれる作品で、
個人的には仮面ライダーの時点で既に存在していた規定の路線に特撮、それも昭和特撮に興味のない人が思い浮かべるような火薬を使った派手な爆破シーンだとか、下手をしたら命を落としかねない危険なアクションだとか、スポ根に影響された特訓シーンが結構あってだとか、
そういうあくまでも興味のない、興味の薄い人たちからの昭和特撮の基本的とされているようなイメージを決定付けたのがこの仮面ライダーV3という個人的な印象です。

それでいて仮面ライダー1号と2号の能力を掛け合わせたのがV3であるだとか、ちゃんとそういうヒーローとしての成立しているというと表現は変かもしれませんが、そこに前作を越えようという本気度も私は感じるのですが、まあいろいろとV3ガチ勢は語りたいことはいっぱいあるぞと主張するでしょうが、敢えて私が挙げる要素は“復讐心”という要素。

仮面ライダーV3の風見志郎はデストロンに両親と妹をデストロンの影を目撃したからという理由だけで惨殺されます。
そして復讐のために仮面ライダー1号と2号に自分を改造してくれと、ショッカーに拉致されて改造人間にされてしまった二人に必死に頼み込むのですが、もちろんそんな背景を風見志郎は知りません。
しかし、そこで二人のライダーは改造人間の哀しみを背負うのは自分たちだけで十分だと風見志郎を諭します。
そんなこんなでデストロンのアジトに潜入した1号と2号の後を着けていた風見志郎は、デストロンの罠に嵌まり絶体絶命だった二人の身代わりとなり重症を負います。
1号は自分たちを命に代えて救った風見志郎をむざむざ殺したくないと2号に告げ、彼を生き長らえさせるために改造手術を施すことを決めます。

この時点で、風見志郎は復讐心を乗り越えているわけですね。それが何故なのかというと、デストロンに復讐したいのだから自分は死ぬわけにはいかない筈だからです。
それを二人の仮面ライダーのために自分の身を躊躇なく差し出したのですから、ある意味で英雄的な自己犠牲の精神というのがここで示されているのかなと私は思います。

それから風見志郎は続く第2話で家族の墓前に立って、普通の人間ではなくなってしまったことを謝罪し、その身を世界の平和のために使うと誓うわけです。

この昭和の仮面ライダーシリーズの主人公たちは、誰しもがどこか人間味みたいなものがどの作品にもある気がします。
その上で常識を逸脱したと敢えて表現しますが、超人的な精神と自己犠牲を併せ持つ完璧超人でもあるのです。

本郷猛だったら孤独を感じさせる寂しさ、一文字隼人だったら強敵に敗れて世界のための重圧に屈してしまいそうな心細さとかですね。
それがまた毎回ドラマとして演出されるわけではありませんが、たまにそういう回があると昭和の仮面ライダーシリーズでは傑作エピソードとして語り継がれるということなのです。

そしてその風見志郎が番組終盤も終盤に登場するデストロンの大幹部ヨロイ元帥に復讐すべくライダーマンになった結城丈二を、もちろん彼の善性を目撃した上でですが、個人の復讐心は捨てて正義のために共にデストロンと戦おうと感情をぶつける流れが来るのです。
その結城丈二も最後はある自己犠牲の精神による行動で、仮面ライダーV3から英雄だと讃えられて仮面ライダー4号の称号を貰います。

仮面ライダーV3は昭和の仮面ライダーシリーズにキャラクターとしても無くてはならない存在でしたが、作品そのものも前作仮面ライダーと並ぶ欠かせないエポックメイキングとしてあると思います。
そうなると当然評価は星5つとなります。

昭和の仮面ライダーは一言で一括りにして片付けられてもしまう側面もたしかにありますし、シリーズもまだまだ草創期でもあるため選べるネタも豊富にあったのでしょうが、どの作品どの作品も前作とは違うものにしようという試行錯誤がちゃんと視聴すると存在します。

それは今の平成仮面ライダーから続くシリーズにもいえることなのでしょうが、私は老害なので玩具販促番組になったなんて言いませんが、若手俳優の登竜門になってしまった次世代のアイドル俳優育成番組で、仮面ライダー何某だとかの時期に役者が強く望んだから仮面ライダーでは本来なかった登場人物を仮面ライダーにして、なんというかそれをファンが言うならまだしも公式がライブ感だと推し続けて、今ではそれを言い訳にもしているような雑さがあまり好きではありません。

厳密には私がそういう風に勝手に感じているだけなので、実際にそうなのかとかは判りません。
私もそうなのですが、世の中のまともな思考の老害たちが言いたいのは大人の視聴に耐える物語とか、子供染みたデザインや音声の何だとかではないのです。

少なくとも、今の製作体制というか姿勢というかに疑心暗鬼を抱いてしまうのは、これはどっちが悪いですか?というなんだか抽象的な言い回しと表現になりますが、面白い作品とか良い作品とかではなく、本気で作品を世に送り出していますか?ということなのです。

ライダーバトルとか、連続性だとか、その時は起爆剤になった要素をいつまで引き摺るのでしょうか?
新しいものは作ろうとしてますか?
新しいことをやろうとしてますか?
新しいというのがわからなければ試行錯誤を重ねていますか?

仮面ライダーV3はきっと現代のちびっ子が見ても楽しめる作品だと思うのですが、瞬瞬必生というもので本当に作品って遺していけるものなのですかね?
そういうまともな全老害の意見を総括したつもりの老害の意見でした。
オジサン

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