このレビューはネタバレを含みます
水滸伝ミリ知らの自分は見ながら色々調べつつのドラマとなった。
最終話を見終えて今作が遼との闘いをマルっと無視した上、田虎・王慶の反乱軍鎮圧を省いた百回本を基にしているのを知る。
原典との倫理観の違いを削除した部分はある、魔法が登場するファンタジーさをカットし、都合の悪いとこはぼやかしたり創作として補足するなど現代向けに改変されてはいるが、真面目に作っていると思う。
後味の悪さから評判の悪い後半だけど、忠義の人が奸臣に謀られ非業の死を遂げる話など掃いて捨てるほどあるので、さほど怒りは湧かない。
まぁ前半の荒唐無稽でハチャメチャなストーリーからの温度差は大きいかも知れないけど。
後半は、宋江はどうすれば良かったのか?と考えながらの視聴となった。
梁山泊とは、当時として成立し得ない身分を超え働きに応じ席次が決まる、ある種平等な世界のはずだった。
晁蓋の遺言を反故にし、結果民主的な意向に沿う形で宋江が首領に就任する。
なぜ彼がここまで推されたのか。
その二つ名“及時雨“が示す通り彼は他人をジャッジせず残りの善性を信じる人だった。
それが罪に問われた人間の尊厳にどれほど“恵みの雨“になるかはドラマで幾度も繰り返される。
一方で無慈悲なリクルート作戦が招いた悲劇も役人や将軍に多くそれをスンナリと受け入れる人々を理解するのは難しい。
彼らの冤罪を晴らすことはすなわち自らも救う事と宋江は見極めたか?
抗えぬ身分制度のもと、盗賊であるという未来なき境遇を帰順することで拓きたいという彼の願いも分からなくもない。
が半数以上は梁山泊で自由を満喫する市井の人々であり、誰が好んで過酷な身分制度まして奸臣がのさばる世界に戻りたいと請うだろう。
宋江も(視聴者を含め)全員を説得する事はできず“俺たちの兄貴“という立場を極限まで利用し押し切る形となった。
そこには純然たる身分制度がなお横たわる。
この矛盾が物語の最大の弱点であり最大のリアルさなのかもしれないなとも思う。
教養の足りぬ自分には宋江個人が現代で言うところの“肉屋を支持する豚“か“カルト組織の狂信者“に見えた、と雑にしか例えられず、
「皇帝から死を望まれれば全うする」それを忠義とする最後の宋江が人として哀れすぎて言葉がない。
そう思うと900年後(小説の成立は明代)も読み継がれる名著の、現代にも通じる普遍性に慄くばかりです。
となると、気になるのは物語が幕を閉じたその先、宋江が忠義を尽くした朝廷の末路。
本分の政は人任せ芸術にのみ才能を注ぎ「風流天子」と呼ばれた皇帝徽宗は、女真族の金との外交政策に大失敗し、長子に帝位を譲るも開封府を含む華北を戦により奪われ皇帝欽宗ともども敵国に連行されて北宋は消滅。
男は殺され宮中の女や宗室高官の妻娘らも金の“戦利品“として同様に移送辛酸を舐め、太上皇徽宗と皇帝は死ぬまで監禁された。
宋江が梁山泊を犠牲に守った朝廷は、彼等を招安し使い潰されるのを防ぐこともできず見殺しにした徽宗の存命中に滅びてしまったことになる。
なんという皮肉だろうか。
水滸伝とは、この北宋の滅亡まで知ってる事が前提の、水滸伝なんかもね。
そんな気がしました。