YasujiOshiba

キアラへのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

キアラへ(2021年製作の映画)
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イタリア版DB。23-140。キャッチアップ。カラブリア州のジョイア・タウロの街を舞台にした三部作の完結編。

最初の『地中海』(2015)は移民の話。ブルキナ・ファソ共和国に家族を残し、その生活のために命懸けで地中海を渡った流入移民(immigrante)のアイーヴァ(演じるのは実際の移民クドゥ・セイオン)が主人公。二人の移民が襲撃されたことをきっかけに起こった暴動事件もまた実際に起こったことだし、主人公が出会うイタリア人の農園主は、かつては自分たちも流出移民(emmigrante)だったと理解を示す。ここにふたつの家族が交錯する。

続く『チャンブラにて』(2017)はロマ人の話。しかしここでも描かれるのは家族。ジョイア・タウロ近郊のチャンブラ地区のロマ人コミュニティが、14歳の少年ピオ・アマートの目を通して浮かび上がるのだけど、盗みをしようが何をしようが、それはすべて生きるため。そして生きるとは、家族と生きることなのだ。

そしてこの『キアラへ』(2021)は、ジョイア・タウロのカラブリア人の家族の物語。タイトルの「A Chiara」は、15歳だったキアラが18歳になった誕生日での乾杯の言葉で「キアラに乾杯」という意味。同時に、この映画全体が「キアラに」捧げられた贈り物だということ。

印象的なのはクローズアップとぼかし。ぼうとうから髪の毛のクローズアップ。ゆっくりパンしながら、ランニングマシンで汗をながすキアラ(スワミ・ロートロ)の姿を映し出す。それは地下のジム。階段を登ると家族が待っている。プレゼントを渡される姉。18歳の誕生日が近い。

続いてパーティーのシーン。強烈なトラップの響きがセリフにかぶさり、耳のなかにはジョイア・タウロに生きるキアラたちの鼓動が鳴り響く。キアラの姉ジョルジャ(ジョルジャ・ロートロ、実の姉)に乾杯の言葉をといわれた父クラウディオ(クラウディオ・ロートロ、実の父)は、とても言えないと固辞。ジョルジャがお願いとねだる。とてもダメだと涙を浮かべる父。それじゃわたしのことを何て思っているの、と娘。お前はわたしの人生さ、と父。見事なセリフ。見事な涙。

しかしこれは即興。否。即興的演出。このシーンは感染症による中断前に撮られたもの。監督は二つのことだけを注意していた。主人公のスワミのことはキアラと呼ぶこと。そして、この映画についての話をしないこと。パーティのエキストラは全員地元の人々、ロートロ家の親戚や友人たちなのだ。そして18歳になるジョルジャは、ほんとうにあと数日で誕生日だったという。

リアルとフィクションを混じらせながら、そこにリアルでもないフィクションでもない物語を紡ぎ出す。見事な手腕だが、そんな演出を一朝一夕にできるものではない。監督のカルピンニャーロは、映画の舞台となり主人公となるロートロ家と長年のつきあいがある。『地中海』や『チャンブラ』を撮り始めた頃からだという。

そんな長い付き合いが、あのパーティシーンのような演出を可能にする。それはドキュメンタリーの手法だが、あえてフィクショナルな設定を入れることで、思いがけない表出を得ることができる。たとえば、キアラが家の地下室を発見するシーン。キアラ/スワミは自分の家にブンカーがあることを知らなかったのだと言う。だから、あの驚きの表情ができるわけだ。

さらに、冒頭の父と姉のシーンのように、キアラが父にどんな犯罪をしたか問い詰めるシーン。人は殺したの、ドラッグを扱ってるのと、問い詰める場面には、本物の娘が本物の父を問い詰めるリアルがある。しかしそのリアルは、父がカラブリア・マフィアのヌドランゲタの活動で指名手配されているというフィクションがあるからこそのリアリティ。嘘なのだけれど、本物以上に本物らしい父と娘の表情が向き合う。それこそがフィクションの力。

そのヌドランゲタはまさにこの家族的な紐帯が強さの元になっているという。シチリアのマフィアも、ナポリのカモッラも、疑似家族として組織に入ることができるが、カラブリアのヌドランゲタは違うのだという。血がつながらないものは入ることができず、血のつながりだけの紐帯であることが力となっている。

だから、その組織力を弱めるためにヌドランゲタの犯罪者の家族、とりわけ未成年には隔離措置が取られると言う。家族から引き離すことで、血の紐帯にまきこまれることを妨げようというのだ。

それがあのラストシーンに繋がってゆく。引き離されたキアラは、新たな土地ウンブリアで新たな生活を営みながら18歳になる。すっかり垢抜けたキアラだが、鏡を覗き込むとき、そこには輪郭のボケた家族がいる。その家族をひきずりながらも逃げ出すように走り出す。

冒頭のランニングマシンの何度目かの繰り返し。しかし今度はマシンではない。スタートラインに立ち、走り出したキアラの背中は、ナイターの光が鮮やかで曖昧な点描画のような、フォーカスのボケた世界の向こう側へと消えてゆく。

そんなキアラの背中は、「地中海」を超えてジョイア・タウロの街へとやって来たアイーヴァや、チアンブラでロマ人として大人になるピオの背中に重なりながら、街の外の世界へと走り出したということなのか。


参考までに、英語のプレスキットがここで読める:
https://mk2films.com/wp-content/uploads/sites/4/2021/07/a-chiara-press-notes.pdf

追記1:
キアラを演じた彼女の名前はスワミ(Swamy)。イタリアでは女性に使われることが多いみたいだけど、これってインドでは宗教的な師スワミで「ものを知る人」の意。

追記2:
イタリア版のBDにはメイキングと、映画の出発点となった同名の12分の短編『A Chiara』(2019)が収められている。これがよい。

2021年のヴェネツィア映画祭で、SIC@SIC(Short Italian Cinema @ Settimana Internazionale della Critica:イタリア短編映画@批評家国際週間)のクロージング作品として特別上映されたというが、長編がカンヌで上映されたあとの公開となり、縮尺版のように思われたらしいけれど、実際は長編への足がかりとなる作品。

冒頭は海。波。そして重低音。なにかがおかしい。そのおかしさが音と映像に現れる。そのおかしさの依代となるのがキアラ/スワミ。母からの電話。妹の姿。フィアットから顔をだす妹。運転する母。家に帰れば父。その父と天井の作業場での言葉のない会話。そして夜。両親の言い争い。家の前の車の爆発。炎を見つめるキアラの目。部屋に帰れば、世界は足場を失い、部屋のなかにまで波が打ち寄せてくる。

そんな12分は確かに本編を短縮したものに見えるのだが、実際は映画へのステップ。そこでは監督が、キアラの依代となるはずのスワミと、カメラを通して対話する。どう撮るのか。どんな語りになるのか。実際、『A Chiara 』の脚本は、スワミを選んでから彼女を念頭に書き直されたというのだが、この短編がその書き直しに重要な役割を果たしたはず。

しかし長編は長編。この短編は短編として魅力を放つ。力強い映像、言葉での説明が最低限、明白な叙述構造は、焦点を絞りこみながら、見るものを解釈へと挑発する。この12分には、すでに長編一本分のエモーションがある。そういうことだ。
YasujiOshiba

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