まず劇中アニメの説得力がすごすぎる。
クリエイター系の作品って劇中作のクオリティが作品全体の説得力を左右するくらい重要なのだが、そこに時間とお金をかけてもいられないというなんとも悩ましい部分でもある。
なんだけど、今作はそこに全ての力を注いだんじゃないかってくらいクオリティが高い。
だから若干無理があるような話でもすっと飲み込むことができるし、キャラクターが生きた者として動き出す。
それこそまさに、劇中語られていた誰かに届けるための“本気”であり現実とフィクションがリンクする感覚を味わうことができる。
どんなに素晴らしいものを作ろうと、“見る”ことができないやつには誰にも届けられないというメッセージが一貫してあり、神(作者)こそが絶対”ではないという視点が存在しているのは素晴らしい。
だからこそ残念に思うのが、覇権争いの顛末で物語が収束してしまっている点だ。
主人公がフィクションに人生を救われた人物として描かれるわりに、じゃあ彼女が作った作品が現実の“誰か”にどう干渉したのかというドラマが掘り下げ不足である。
それは作品を観た人もそうだし、彼女の作品制作に関わった人もそう。
“届く”というのは決して良い意味合いだけではない。フィクションに救われた人がいるように、フィクションに傷つけられたという場合もあるのだ。
だからこそフィクションにおける表現には気をつけなければならず、それが誰かに届けるということであるという視点があってこそのフィクション讃歌ではないか。
また、この掘り下げ不足が何を起こしているかというと、先にクリエイター賛美にはなっていないと書いたが、とはいえ制作現場は作者の“本気”のためなら無理をすべきでそれが作品愛だ、というメッセージを少なからず内包してしまっている。
良い作品を作るだけでは届かないというのは良い、しかし一方でなぜ“金”にならないと届かないのかという問題もあるはずである。
商業主義から脱した結果として大きな経済効果を生み、そして誰かに刺さるというプロセスをもっと踏み込んで描くことができていればラストのカタルシスももっと違うものになっていただろう。
といっても、熱く、多くの示唆に富んだ作品であることには間違いない。