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ふたりの女、ひとつの宿命のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ふたりの女、ひとつの宿命(1980年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 人間が生まれ持った性(ジェンダー)から逃れられないことを、マールタほど淡々と描ける者もいない。まさに宿命としてあるがごとく。彼女が描いてきたモチーフは今作において、時代を変えても存在することを裏付ける。時はファシズムによる軍靴の音が近づく1936年、代理出産に纏わる物語。医療でどうにもならない、文字通り”代理に出産”してもらうことで引き起こる綻び。 

 マールタ作品はこれにて完走。70〜80年代を通して見ると、一貫したテーマや、前作で描ききれなかった二次的なテーマを主題に据えたり、反証としたり変奏したりと、真摯な制作態度が見受けられる。不穏な結婚、養子縁組、別れた後の出産の是非、そして代理出産、そこには制度や社会との葛藤と、自由意志と、どうにもならない人間の性(さが)が絡む。昼ドラと例えるに相応しいが、感情の爆発も陰湿さもそこまであるわけではない(ラストを除けば)。スカッとTV的な快楽を得て「〇〇が悪いよねー」とかいうジメジメを感じない。だから、好きである。誰もに平等に肩入れしつつ突き放して描くのはドキュメンタリー出らしい眼差しを窺える。そのせいかイザベル・ユペールという大物俳優を突出して描くわけではなく、常連俳優陣と同等に扱う。ユペールのあのちょっととがった口の機微が、ラストカットにて意味を為すぐらいには、巧みな配役だったことを感じる。

 着る服、髪型を共にして仲睦まじくなるイレーンとスィルヴィアはシスターフッド的にみえる。それはしかし、夫のアーコシュと情を交わしたという共通項により、イレーネが無意識にスィルヴィアに類似することでアーコシュの興味の対象となろうとしているかのようである。またユペールが無自覚なその表情でもって非常にあざとさがある(ツインテが可愛い…)。思えば、マールタ映画の女性が距離を詰める描写には、男たちが割って入ろうとするのもセットであった。あれは一種の戯画であったが、今作においては一つ複雑さが加わったと言える。女性同士の絆の深さは男を誘引するが、男はどちらかを選ぶので、女性同士の絆には嫉妬が生まれる。今作はあの戯画が戯画でなくなる瞬間の映画なのだ。冒頭、スィルヴィアがお守りとしてあげたリングは、恐らく妊娠したあたりで金のリングに置き換わっていた。イレーンの詩もまたアーコシュのものとなる。邦題が的確すぎて、この関係性の重さが響く。イレーン出産シーンでのスィルヴィアの泣きという、別々の痛みのシンクロが見ているこちらも苦しくなる。

 映画内映画。今作にある寓意は映画のフィルムと直後の父の自殺だろう。今作はフッテージ映像が頻出し、アーコシュは撮影が趣味でもある。彼が見せるベルリン五輪の映像は、今作においてやや尺の長さを感じさせるものがある。妙な長さが後の自殺との関連を結びつける。またシーンは変わって雪景色での撮影と(今作、雪景色と陽光の煌めきが美しい)、のちにそれを見るシーンがある。ここでアーコシュとイレーンが見ているのを遮って影としてスクリーンに邪魔をするスィルヴィアの画というのが、端的に関係性を表しつつ視覚的にも面白いものとなっている。ある意味では「フェイブルマンズ」で映像が不倫を捉え、また嫌いな相手をヒーローに仕立て上げたのと、同じことがここで起こっている。 

 ラスト、おそらくはゲシュタポによって殺害されるであろう末路を想起させつつ、イレーンの表情はまさに先に述べた無自覚な微笑なのだ。歴史は彼女に歪み憂いる顔を強いることができなかった!そう捉えてもいいかもしれない。その後の凄惨さを歴史から学んだ我々は、無自覚なその目線に射られて、凍てつくのであった。

 また、貰った花をバッサバッサと切り落とすぐらいのサスペンスフルな力がその顔に宿っていることを忘れてはならない。この無垢なる顔に宿る両義性は「ドント・クライ・プリティ・ガールズ!」のラストと殆ど同じ効果だと思う。しかしこの両義性をうまく言い表しているのはイレーンによる詩そのものであるかもしれない。「後ろには罪、前には夢」。顔の裏にあるのは罪で、見つめる先には夢がある。
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