レインウォッチャー

ふたりの女、ひとつの宿命のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ふたりの女、ひとつの宿命(1980年製作の映画)
4.0
おやおやこれはまさか、《パワーバランスが変わってゆく映画》と《誰かが段々おかしくなる映画》のハイブリッドじゃあないか。つまりわたしにとってはあいがけカレーでありエビフライのせカツ丼。Hoo!

WWIIの靴音が聴こえてくる頃のハンガリーで、2人の女が出会う。軍の要職につく夫をもつ裕福なスィルヴィア(L・モノリ)と、美術の夢を追うイレーン(I・ユペール)だ。
2人は意気投合し、やがて不妊の悩みを抱えていたスィルヴィアは、援助を条件としてイレーンに代理出産の相談を持ちかける…

オレンジを中心にした室内の深く沈み込むような美しい陰翳の中、この女2人+スィルヴィアの夫アーコシュが織りなす、珍奇な三角関係の推移がスリリングかつ艶かしい。はじめは1:1:1から、1:2になったかと思えば、いつしか2:1になり、そして最後にはまったく別の表情を携えた1:1:1へ…

後半ではナチズムの侵食による影響も色濃く影を落とし、結果として各々が元々持っていた思惑はまるでどれひとつとして叶わなかったように見える。
観終えたあとの肚にはやるせなさが溜まるけれど、同時に深い納得感も共にある。出会うべくして出会った者たちが、抗いようのない潮流の果てに行き着いた。ラストカットで映されたイレーンの眼差しには、絶望よりも悟りのような境地が感じられる。

序盤にしてスィルヴィアが「女に生まれたなら男と生きるのが運命」なんて語るように、彼らの顛末(=歴史)はやはり、近現代の女性たちが直面してきた生き方のままならなさと重ねられている。『ドント・クライ プリティ・ガールズ!』からも地続きな、M ・マールタ監督のライフワーク的テーマでもあろう。

出産という最も《女らしい》(と敢えて書きますが)行為すら他者に委ねるということ、そもそもその枠から外を想像することすら難しかったということ、そして全ての選択や妥協や努力を無に着せしめる戦争という《男らしさ》がもつ負の極地のような暴力のかたち。

これらの捩れによって、スィルヴィアは(イレーンやアーコシュも)病んでいく。スィルヴィアとイレーンは、時に双子の姉妹のように接近しながらも決定的に隔たっていく。そのシンクロ&逆シンクロ具合は今作の白眉だ。
代理出産はスィルヴィアから提案した話ではあったけれど、その前提 / 背景には彼女…つまり当時の女性が(実は男性もだと思うが)できる選択の限界があり、むしろそれ故に彼女らをより深く引き裂いたと見るべきであろう。

何度かリフレインされる、イレーンが暗誦する詩「前も後ろも霧…」は、まさに彼女らが置かれている環境を表しているかのようだ。
雪の教会で聖母像を前にしたとき、イレーンが踵を返したのはなぜか?覆いかぶさる《女性性》のイメージの圧に周りを囲まれ、どうあっても逃げ場がないことをこの時点で悟ったからではないだろうか。彼女が退く先にも進む先にもきっと厚く霧が立ち込めていて…この映画を経たいまなお、晴れた場所を探してさまよい歩いているのかもしれないのだ。

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今作におけるI・ユペールちゃん様は火力高すぎでチートgifted荒技wanted。黒から白までさまざま魅せるファッションはもちろん、時には強く時には脆く。
貰ったガーベラ(?)の首をちょんぎっていくパンクなお姿には惚れ直し必至。