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VORTEX ヴォルテックスのniのネタバレレビュー・内容・結末

VORTEX ヴォルテックス(2021年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

すごく面白かった。
いままで観たギャスパーノエ作品に比べるとかなり説明的で親切なつくりになっている気がする。
映画の各要素がより記号的に扱われていて、観客に色々語らせたくなるというか…それが良いことか悪いことかはさておき、これがきっかけで過去のギャスパーノエ作品のテーマに新しく気づけたところもある。
それは後々書くとして、まずは本作の感想を。

PTSDの治療法に、EMDRというものがある。ざっくり方法を述べると、「クライエントはトラウマの場面を思い出しながら、セラピストが左右に振る指の動きを目で追う」というものだ。
人間の眼は、右眼が左脳に、左目が右脳につながっている。左脳はおもに言語情報処理を担当し、右脳はおもに非言語情報処理を担当している。眼球の左右運動を行うことで、左右の脳の連携が行われ、トラウマ記憶への処理が促進される…というような理屈だったはず。(私は非専門家なので、うろ覚えの雑語りですが)

つまり、右眼は言語情報処理の分野に、左眼は非言語情報処理の分野に近いとされているわけである。
それを踏まえてか、本作で分割された画面において、右側に写された人物は言語情報に基づいて行動し、左側に写された人物は非言語情報に基づいて行動している。
そして、夫と妻がその左右をスイッチする場面では、その行動の性質も切り替わっていることを意味する。
夫が左側で咳をしながら眠っているとき、妻は右側で起きて着替え、湯を沸かす。その後左右がスイッチすると、夫は右側でつきっぱなしになっているガスを止め、湯をカップに入れる。そして妻は左側でぼんやりと座り込む。

映画内ではおおむねこのルールに則って人物の描写が行われているが、ときおり主体と客体が曖昧になる場面がある。例えば徘徊した妻に対して夫が説教する場面。ここでは左右それぞれに2人ともが写しだされる。
その場面では、夫は街には「頭がよくなかったり、おかしくなった奴ら」がいるとし、彼らを悪しざまに言う。それに対して妻は「そんなこと信じない」と答える。表面的にはそのやりとりは夫のほうが論理的に、妻のほうが感情的に見えるが、そうとも言い切れない。夫は妻の頭が壊れはじめていることに向き合えておらず、妻は自分の頭が壊れはじめていることに向き合っている、ともとれるからだ。

彼らの職業もまた象徴的だ。
夫は映画評論家であり、映画という非言語情報(ミュトス)を言語情報に起こすことを仕事にしている。また、妻は元精神科医で、医学という言語情報(ロゴス)に基づいて、患者たちに非言語的な治療を行うことを仕事にしていた、とも考えられる。
ミュトスをロゴスに繋ぐ者と、ロゴスをミュトスに繋ぐ者が対照的に配置されているのである。(ロゴス、ミュトスに関しては、他に適切な語が思い浮かばなかったので用いたが、文脈などちゃんと把握しきれていないので用法に自信はない。どうかお手柔らかに)

なので、脳を病むということはロゴスから遠ざけられるということであり、心臓を病むということはミュトスから遠ざけられるということだ。そうしてこの2人は左右に断絶される。

他にも印象的だったのが、ドラッグの扱い方だ。夫は左側の画面で煙草を吸う一方、妻は右側で精神薬を飲む。煙草が非言語的な身体の欲求によって吸うものであるのに対し、精神薬は言語的、理性的な欲求(脳を治療したい)によって飲むものだからだ。
ドラッグに依存している息子もまた、映画の序盤から中盤にかけては、基本的に画面の左側でドラッグを摂取する。

しかし、夫の死をきっかけにその左右もまた逆転する。
息子は右側でドラッグを吸い、妻は左側で精神薬をトイレに捨てる。
ここでは息子は身体的な欲求ではなく、親族の死へのトラウマを癒すための治療としてドラッグを摂取している。そして妻は、身体による非言語的な拒否反応に基づいて精神薬を処分しているのではないか、と考えられる。

また、死後の描写も印象的だ。
夫が左側で息を引き取った後、病室の外で妻と息子のコミュニケーションが描かれる。
夫は不在だが、ここでも左右の画面に違いが表れる。右側ではロングショットで描かれるのに対し、左側ではアップで描かれるのだ。

私はその時、この映画は、「人は死んだらどうなるのか?」という問いに対して、映画という立場から答えを出していると思った。
つまり、映画の中では、人は死んだら主体や客体でいるのをやめて、カメラになるのである。

その後、妻は左側でキリスト(=ロゴス)へ祈りを捧げて自死する。そして右側では生者たちによって、彼らの死を悼む儀式が行われる。
残されたカメラは彼らの痕跡を辿りながら、空中で反転してフェードアウトする。

追記:「CLIMAX」について
この作品を観た後、「CLIMAX」はまた別のアプローチでロゴスとミュトスの関わりについて描いていたのではないか、という考えに至った。

「CLIMAX」において、前半は極めて静的なシーンが続き、登場人物のナラティブがほぼ台詞で語られる。しかし後半ではほとんど台詞はあらわれず、非常に動的なシーンの連続になる。
つまり、前半は極端にロゴス的であり、後半は極端にミュトス的といえる。「VORTEX」が空間の左右分割でそれらの断絶を描いたのなら、「CLIMAX」は時間の前後分割で描いていたといえるだろう。

私はこれを観た当時、映画としてはアンバランスで退屈なところも多く(とくに前半)、正直不快だなと思った。
しかし今だからこそ言えるが、映画はべつに人を快適にするためだけに存在しているわけではないのである。
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