shunsukeh

生れてはみたけれどのshunsukehのレビュー・感想・評価

生れてはみたけれど(1932年製作の映画)
3.0
この映画のテーマは「偉い」というのはどういうことなのかだ。登場する子供たちは皆自分の父親が一番偉いという。どんなところがかというと、いい車に乗っているだったり、歯を抜き差しできるであったり。まるで分かっていない。ただ、彼らは父が偉くあって欲しく、それを誇りたい、そう強く思っている。この映画ではその答えを示していない。その代わり次の象徴的なシーンで伝えようとしたことがある。
まず、オープニングのタイトルバックの絵。桃太郎が桃から生まれたところ。裸を恥じらうような姿。しかし、それは明らかに大人である。纏わり付いたものを全て捨て去れば、皆同じ裸であり、恥ずかしさが伴うものである。それは偉さを誇ることの対極とも言える。
二つ目はすずめの卵。それは、子供たちには、ポパイのホウレン草のような強壮剤として、また、そうであることを前提に活動写真を観るための対価となる宝物として扱われている。しかし、すずめの卵はそれを食べた犬の体調を壊させただけで何の効用も無かった。思い描いていた価値はただの幻想だった。彼らが偉さと思っていたものは実は偉さとは全く関係無いものだった。
三つ目は、子供たちがしている妖術のような遊び。指の動きで相手を倒し、手のひらをかざして復活させる。誰が誰に対して行っても、皆同じように振る舞う。誰の子であっても、喧嘩が強くても弱くても関係無く平等である。偉さというものに意味があるのか、ということすら問うているようだ。
主人公の兄弟は、上司にペコペコする父親を軽蔑しかけていたが、物語の最後には、上司に気づかない父親に挨拶しに行くように促す。彼らは少し何かを理解したようだ。
「生まれてはみたけれど」とは、生まれた世界のつまらなさを表わしているのではなく、人が年を経て成長することこそ意味あるものであるといっているのだと感じた。
shunsukeh

shunsukeh