【僕たちの世界】
相当久しぶりに「気狂いピエロ」を観たのだけれども、映像がものすごくキレイだったことに感動したのと、エンディングに詠まれるランボーの詩「永遠」の一説の訳が、こんなんだっけと少し混乱した。
エンディングの海のシーンは、溝口健二の「山椒大夫」へのオマージュだとも言われているが、海に太陽の光が反射してまぶしい様は、ランボーの「地獄の季節」に収められている「永遠」の一節の、非常に良く知られた小林秀雄さんの訳がぴったりだと思っていたからだ。
小林秀雄さんのは
“また見つかった
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が”
これが、映画の字幕では
”また、見つかった
何が、永遠が、
太陽とともに去った海が”
やばい。「薔薇の名前」のラテン語の詩以来の字幕の変更だと思ったが、取り敢えず、普段は買わないパンフレットを買ったら、これについて載っていた。
興味のある人はご購入下さい。
この「気狂いピエロ」は、ジャン=リュック・ゴダール追悼で同時上映の「勝手にしやがれ」のように主要な映画賞を受賞していないし、後年の映画雑誌やメディアなどのランキングでも上位には入らない作品なのだけれども、なぜか、ゴダールと云えば「気狂いピエロ」みたいな、ゴダール・ファンにとってはヌーヴェル・ヴァーグの到達点のような作品と考えられているし、「気狂いピエロ」こそ総合芸術みたいな記念碑的な作品でもある。
ヌーヴェル・ヴァーグとは、ロケを中心にした即興演出・演技、自然光での撮影など、ハリウッドを中心にした大作主義の対極に位置する映画制作トレンドとされているが、この作品も、そこを強調して語られることは多いように思う。
キューバ危機や、ベトナム戦争の泥沼化の様相などから、ハリウッドの大作主義のみならず、アメリカを批判しているとの声もあったように思う。
マリアンヌが、ベトナム風の帽子を被り、顔を黄色に塗っている様は、いかにも人種差別的で社会問題を意識させられる。
こうしたことが、公開当時の日本のインテリや学生の間で話題となり、「気狂いピエロ」が特に神格化されるようになったのではないかと感じたりする。
ただ、僕は、ゴダールは、もっと自己(自国)批判も含めて、大きな視点でこの作品を制作しているように思う。
それは、アメリカのベトナム戦争は、フランスからの独立を求めたベトナムが戦うことになった第一次インドシナ戦争を、アメリカがフランスから引き継いだものだし、映画のギャングはアルジェリアからの連中だからだ。
アルジェリアは、フランスの旧植民地でアルジェリア戦争を経て、1962年にフランスから独立している。
これらはフランス由来の当時の社会情勢でもあるのだ。
そして、引用される文学者や芸術家の作品なども、人間の奥底に潜む、計り知れない”何か”を示唆しているように思えてならないのだ。
有名なヴェラスケスの女官たちは、幾何学的な人物や対象物の配置、陰影などが話題になりがちだが、ヴェラスケスは、スペイン・ハプスブルグ家の血筋を守るための近親相姦の危うさを、あの色白の王女に込めたと言われている。
自己崩壊が待っていようと変化できないもの。
詩人ボードレールは、ランボーに大きな影響を与え、映画でも紹介される代表作の「悪の華」は、退廃的で官能的で、且つ、いくつかの詩は反道徳的とされ、当時のフランス政府が作品からの削除を求めたみならず、ボードレールも有罪判決を受けている。
文学表現に道徳は必要なのか。
プルースト「失われた時を求めて」は、世界最長の小説として有名だが、多岐にわたる人間関係から芸術までの様々な思索が無意識の記憶と絡めて重層的に配置されていて、さながら「気狂いピエロ」的にも思える。
合理的な思索には合理的に蓄積された記憶が大きな影響を与えているはずだと考えがちだが、無意識の記憶の与える影響が実はもっと大きかったりしないのか。
そして、「永遠」の一説。
僕たちの世界は、(小林秀雄訳)海と太陽が溶け合ったような混沌ともつかない、何か掴みどころのない世界なのだはないのか。
それとも、(映画訳)太陽も海もも去って、もう何も出来ないような世界になってしまったのだろうか。
この「気狂いピエロ」はストーリーというより、断片的に”記憶”に残ったものを自分なりに掘り下げて思索するような作品なのではないかと思う。
僕は、近視眼的に大作主義が...とか、アメリカが...というより、僕たちが構築してきた社会や、人間自身の奥底に潜むものにフォーカスした作品なのではないかと強く思う。
因みに、この作品が制作されたころから、シャルル・ド・ゴール大統領は、アメリカから距離を置き、ヨーロッパ独自の政治経済体制の構築が出来ないものかと様々な試みを始めている。