ぼっちザうぉっちゃー

グリッドマン ユニバースのぼっちザうぉっちゃーのネタバレレビュー・内容・結末

グリッドマン ユニバース(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

前日までに『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』を一気に観直して、その他原作始めとする関連作品にもざっと目を通し改めてハマった万全の状態で鑑賞。
最高のファンムービーだった。

何というかもう、グリッドマンの戦いを、作中で六花たちがジャンクの前でするように映画館のスクリーンで他人と一緒に観ているということ自体に、すごく大きな一体感みたいなものを感じて、それこそ子供のころ本気で応援したヒーローショーを観ているような気持ちになった。
特に今回はいきなり出し惜しみなく、のっけからフルパワーの特撮や、ロボット、魔法少女などのジャンルとしての面白さもしっかり大画面で堪能できたのが良かった。
中盤のカオス場面では、歪んだ世界が冴え渡るトリガー味も楽しめた。

そして何より、いずれ菖蒲か杜若な二作品のキャラクターたちが一同に会しているだけで、すっごい豪華(焼肉とかお泊り会とか)な二次創作みたいな贅沢感があって堪らなかった。
それだけキャラが多く、あくまで裕太主人公で展開する物語のなか、各々が限られた見せ場でしっかり存在感を示せる「キャラの強さ」、「実体力」、「空気感」みたいなものがとてつもなく魅力的だなと改めて思った。


こういったキャッチーで漫画的アニメ的肉付けを充実させながら、その実、「虚構」というシビアな問題と純粋に向き合うのがこの「グリッドマン」。
冒頭から、TRIGGERのロゴにガシャンガシャンとズームする演出。覗き込む実写の眼球。そして映されるのは、粗い解像度の「この物語はフィクションであり~」の文字。
それは「これからあなたが観るのは全て現実ではない、ただの作り物です。」という身も蓋もない言葉。
それは脱世俗的な体験を求めて、めくるめく二次元エンターテインメントの世界を求めてやってきた観客に、いきなり突きつけられる「種明かし」。
映画の最後に表示されて観客をフィクションから現実へと引き戻す役割を負うそれが冒頭に示されることで、本作を観る観客はどこまでも没入を許されず、否が応でもスクリーンとの距離と、自らの現実を意識させられる。

なのに。それなのに。目の前で繰り広げられる怪獣跋扈に、友を救うための盲目的なまでの同心一体に、一人の少年が告白を遂げるための荒唐無稽に、どうしようもなく、胸が熱くなる。

それは虚構を信じることのできる人間が画面上の虚構(裕太たち)から得た感動、には違いないんだろうけれど、しかしその裕太たちもまた「虚構」(被造物である自分たち)を信じる人間であるのだ。
そして私は、そんな彼らを応援した。作られた存在であり、「弱い」存在である彼らを。

その様子は『スパイダーバース』やその他の「マルチバース」作品で描かれるような、自分たちの現実と違う世界の可能性との繋がりを想う心の充実、という夢のある話とも少し違っている。
どんなに世界線を跨ごうと、その裏側を覗こうと、存在しない。しないことが自明である。今作はそんな「創造物・フィクション・架空の話」との付き合い方を、自分の外部に開かれた無限の「マルチバース」ではなく、あくまで個々が内に創造した「“ユニ”バース」を想像するという形で示し、作品として昇華したという意味で、アニメ映画の一つの決定版と言えるのではないだろうか。

いくら望もうと、この手に触れることは叶わない「グリッドマン ユニバース」。あくまで私たちは怪獣のいない退屈を生きなければならない。
けれど時代が変わろうと、自分が変わろうと、虚構に触れて感じた熱い想いは、決して偽物ではない。
それは。それだけは。誰の宇宙にとっても真実に違いない。
そしてその熱い想いは、その感動は、単に「あぁ、作り物に動かされる私たちの心の、なんと愚かで尊きことよ」というある種ポルノ的な罪悪に浸る類のものなんかじゃなく、
自己世界だけではままならぬか弱い存在である自分たち自身への「エール」と、そんな在り方を力強く肯定する「意志」なのではないか。


だからこの作品を観終えた後、夢のない現実を生きることがちょっとだけ誇らしくなって、そして各々の心の中で、こう思えたらいいのだ。

「ここが僕らのユニバース」であると、

「これが僕らのユニバース」であると。