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エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのSQURのレビュー・感想・評価

4.0
物語のメッセージの論旨を初見では追い切れないところがあったが、訳が分からないながらも気がついたら涙がこぼれていた。なんだか分からなかったけどとにかく良い映画だったのでもう一度観たい。そう感じたのは『ジョーカー』以来。

SF映画としては、『ミスター・ノーバディ』や『MIB3』、『ムード・インディゴ』『メッセージ』など過去にも非線形的な時間を扱


ったものがあったが、基本的にはそれらの表現を踏襲しつつも、観客の理解の及ぶギリギリを狙ったカオスに挑戦することで、今までよりも1つ上の次元の完成度になっていたと思う。ただ、あくまで現時点の最高峰というだけで更に上のカオスもできそうな気もしてくる映画で、今後のSF映画の進歩に期待が高まる。

アクション映画は、いかに今までに観たことのない絵面を提示できるかが勝負みたいなところがあり、その点においても文句なしの満点だろう。

また、家族の問題と世界の問題、生きる意味の問題というレイヤーの異なる問題が、文字通り量子重ね合わせ的に重なり合っていてあまりに巧みな設計。ただ、基本的には無常観と今・ここという仏教的なテーマだったとは思うのだが、どこか腑に落ちてない、というのが冒頭で書いた「追いきれなかった」部分。

あと、『花様年華』オマージュと思しきシーンもあり、見たばっかりだったこともあって、テンションが上がった。

自分が何を観たか確認するために、もう一回観たい。


追記:『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のネタバレあり。新しい物語倫理の言語化。雑語り。
親子の思惑が対立したときに、かつては「子供が親の苦労を理解する(=大人になる)」といった落としどころが多かったんだけど、近年(ここ10年くらい?)で”個”の価値観が重要視されるように、社会全体(日本を含む、西欧やアメリカなどの先進国に限られるか?)が変化するのにともなって、映画や小説などでもこのような落とし所が忌避されるようになってきている。代わりに、物語の結論として用いられるようになったのが「親子は別の人間なので、親子の規範にとらわれず、ときには別々の生き方を選択することが重要だ」という倫理規範。そして、そのアンチテーゼとしてさらに、「別々の人間だから関係を断つことは大切だけど、ときには我慢できるところを我慢して、人間関係をやっていくこともまた大切だ」というテーマも最近では描かれるようになってきている気がする(要出典)。これは、「別々の人生がある」といった新しい規範的倫理をさらにひっくり返すものだ。物語において、規範的倫理を破壊し、新しい”倫理”が提供されると、それは「面白さ」として評価されやすい。
社会における「正しさ」の潮流から、物語は自由ではないし、むしろ「正しさ」の規範は物語において誇張して現れる、ということなのだと思う。
EEAaOもまたそういった親子間葛藤の問題を描いているけれど、同時にニヒリズムといった倫理的命題を扱っている。これは、何をやっても結局は全部失われてしまう、といった仏教的命題だ。この命題が、映画内では、親が自分のレズビアンとのアイデンティティを理解してくれないことと、うっすらと(そしてやや強引に)掛けられている。EEAaOの巧みなところは、マルチバースというSF的ギミックを用いて、「親子間葛藤」「セクシュアリティに対する理解」「ニヒリズム」といった異なる次元の問題を同時に一体となった問題として扱うことができている、という点。
再び、「現代的倫理」の話に戻ると、「何をしても意味がない」というニヒリズムに対しては「それでもこの瞬間を大切にすることが重要だ」という答えが「正しい」とされることが多い。マインドフルネスなどの現代の心理学においてもこの視点が採用されている。物語もこの結論を採用することが多い(要出典)。
そして、EEAaOもまた、上述してきた「よくある物語の倫理的落としどころ」を採用している。しかし、マルチバースギミックを用いて問題を一まとめにしたことの弊害がここに現れていると個人的には思う。つまり、「親は違う人間だから」「セクシュアリティを完全には理解してくれない」、「つまり世界にはどうしようもないことがたくさんある」、「でもこの瞬間を大切にすることが重要だ」、「だから親子はときに一緒に生きていくべきだ」といった流れになっている。それぞれは筋の通った”倫理的主張”でも、まとめてしまうとなんかモヤモヤしてしまう。だって、それは別々の問題だから。

さらに、EEAaOに限らない映画全体についても言及したい。今まで言ったように、近年の物語の多くは、いわゆるリベラリズム的(今まであえて”リベラル”という単語を使わないできたけど)倫理に基づいた落としどころを多く採用している。私自身は、個を最大限尊重すべきだという、その基となっている倫理観に大いに賛同する(余談だけど、多くのアンチ・リベラルの人も、よっぽど露骨でなければ、あまり意識せず、そういった物語的結論を受け入れているのではないかと思う)。強調しておきたいけれど、私は本当にそういったリベラリズムを正しいと思っている。
その上で、違う角度から、捉えたとき、そういったリベラリズムな倫理的落としどころが、すでにクリシェに、”手癖”になっている印象を強く受ける。脱構築やポストモダンは否定しにくい思想であり、そこに抵抗するために過去に用いられていたネオリベ的「力」の倫理を再び用いるしかなく、しかしそれも結局は過去に戻っているだけだ。今、社会の中の「正しさ」は停滞している。それにともなって、物語の「落としどころ」もまたマンネリ化している。リベラリズムは停滞してはいけない。常に社会において周辺化されている人を見つけ出し、その人の人生の幸福について考え続けなくてはいけない。それと同じように、手癖で物語を再生産するべきではない。倫理と面白さは繋がっている。ならば、より面白く、より正しい物語を作らなければ、やがては飽き、そして腐敗するだろう。

やや批判的文章になってしまったけれど、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は好きな映画だ。その上で、物語には新しい倫理が必要だ。
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