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エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

「スイス・アーミーマン」のレビューでも書いた「ワケの分からないビジョンの力」が十二分にさく裂した作品だった。いや、「ビジョン」という高尚な言葉を使うのもアホらしい「子供の落書き」みたいな映像が8割方だったのだけれど、、尻に瓶を突っこみながらカンフーするってどういうことやねん、と(笑)

一応、あらすじを書いておけば。本作の主人公は中国系アメリカ人の中年女性。コインランドリーを経営するが、(LGBTの)娘からはそっぽを向かれ、夫からは離婚届けを突き付けられる寸前。そのうえ役所からは「ちゃんとした納税」を迫られている。そんな冴えない人生を送る女性だったが、ある日、とんでもない「宇宙の真実」を知る。この宇宙には「別の形をした可能世界(今風に言えば”世界線”)」が無数に浮かんでおり、それらを生み出しているのが他ならぬ彼女のだという。だが、その並列する可能世界をすべてブラックホールに葬り去ってしまおうとする闇の勢力が。主人公は並列する可能世界を生きる「別の自分たち」から能力を「拝借」しつつ、闇の勢力の陰謀に立ち向かっていく。だが、「闇の勢力」の思わぬ正体が浮かび上がり、そして予想外のラストが…といった流れになっている。

こうしてまとめてみても「なんのこっちゃ」という訳のわからなさに満ちている。にもかかわらず、本作は、よく言えば「現代性」、嫌味な言い方をすれば「アカデミー賞ねらいの傾向と対策」をうまいこと兼ね備えており、それが世界的評価につながったんだろうとも思う。

なお、この「現代性」についてやや深堀りしておけば、「陰謀論と多様性の同居」という感じにくくれるのかなと思う。
つまり、一方に「あの宇宙の住人も」「この宇宙の住人も」「成功者も」「中途半端も」みんな大事=「みんなちがってみんないい」的な多様性を守るビジョンが打ち出されると。そして、登場人物も「白人・美男美女・強ええ」でおなじみのアメリカ映画が取りこぼしてきたアジアンやLGBTQが主軸に据えられると。
(この辺りが「パラサイト」以降続くアカデミー賞の「ポリコレ擁護路線」とうまくシンクロしてるのだと思う)

その一方で、「あなたは宇宙の秘密を握る選ばれた人なのだ!」「だからこの宇宙の真実を暴くのだ!」みたいな「選ばれし民の陰謀解明ストーリー」も同居していると。

この「みんな大事」/「あなたは選ばれし民」という相反するものが分裂しながら同居している感じが、「Qアノン信者≒共和党系」「ポリコレ信者≒民主党系」に分裂しながら同居する今の米国社会の「写し鏡」となったのだろうと思う。

では、なぜ「分裂しながら同居する」のか?それは、アメリカ大陸が1つしかないからでもあるが、それ以上に、この2つがいわば「コインの裏表」だからだろう。
つまり、「AにはAの事情があるから尊重しよう」「BにはBの事情があるから尊重しよう」…とやっていけば、知らなければならない事情が増えていき世界が複雑になっていく。
そうなれば「反動」として「誰がイイモンで、誰がワルモンかはっきりしろ!」というフラストレーションが貯まって行くし、それにあわせて「●●が善で××が悪!これが世界の真実!」という陰謀論的な世界観が台頭してくる。
また「Aさんも大事、Bさんも大事、みんな大事」…とやっていけば、「自分のことを見てもらえている感」は減って行く(感じがする)。
そうなれば「そんな事よりあたしをみて!」というフラストレーションが反動として貯まっていくし、そんな人たちが増えれば「あなたは選ばれし民」という陰謀論がそこに滑り込んでくる、と。

このようにして現実の世界は「同居したものの分裂」が進んでいく。だが、映画はそれをうまい具合に「全肯定」してみせる。
具体的にはこういう理屈をとっている。映画には、納税に追われ、家族にも亀裂をかかえた女性主人公と対比するようにして「役者で成功した宇宙」、「歌手で成功した宇宙」、「料理人で成功した宇宙」などが描かれる。
通常ならば「華々しい可能世界」を知り落ち込むところだが、映画は「そんな華々しい可能世界」を生み出しているのは「他ならぬあなたなのだ!」という。
あなたが”取らなかった選択肢”が(逆にそれを取ったことで)「役者で成功した宇宙」や「歌手で成功した宇宙」を(その反作用として)生んでいるのだと。
だから「それぞれの世界」もすばらしいが、「それを生んだあなたは特別」なのだと。
このようにして映画は「全ての可能世界」を祝福しながら、同時に「そのうちのサエないワンノブゼム」でしかない主人公の人生も賛美してみせる。言い方を変えれば、「どんな時代(時間)も」「どんな場所も」「いっぺんに」肯定してみせる。
なんというか、口のうまい浮気男に騙された感もあるが(笑)「なるほどうまいこと丸め込みやがったな」と感心する。

また、それに加えて、この「あなたが”取らなかった選択肢”が(逆にそれを取ったことで)「役者で成功した宇宙」や「歌手で成功した宇宙」を(その反作用として)生んでいる」というビジョンはなかなか重要だとも思った。
というのも、現実には、このようにはとらえられていないからで。

たとえば、自分が「中途半端な人生」を送っているとする(涙)。
だが、そんな自分が、こういうことを言い出したらどうだろう?
「自分が”取らなかった選択肢”をイーロン・マスクが取ったから彼は成功した」
「だったら、彼の成功は、今の自分のおかげなのだから、イーロンは能力(資産)の一部を私に渡すべきだ!」と。

「そうだそうだ!」になるか?たぶんならないと思う。。
「お前の人生はお前の自己責任だろうよ!」と。こう考える人の方が多いんじゃないか?(自分自身は「だからこの国は息苦しいのだ」と思ってはいるけれど、、)

なぜ、こうなるかといえば、自分とイーロンが「他人」だからだ。けれど、この映画で描かれているのは違う。ここに描かれているのは「全部自分」だ。
とすると話は変わって来る。
「お前の人生はお前の自己責任だ」というなら「お前は別の宇宙のお前の人生にも責任がある」ことになる。少なくとも哲学的にはそんな感じがする。
もちろん、それは映画の話であって、現実的には「絵空事」に思える。
けれど、どうだろう?
というもの、今後は、そうとも言えないからだ。なぜといって、今はメタバースが続々増殖中だ。ならば、そこにどんどん参入していけば、1個くらいは「成功する人生」もあるかもしれない。
となれば「成功したメタバース」で得た「資産」を、現実の自分にも転用することは可能なはずで。
となると、この映画が描く「別の宇宙の自分からの今の自分への再分配」というビジョンが現実のものとなってくる。

もちろん現実は厳しい。だからこうしたビジョンも含めて全部「夢見がちなお花畑のたわごと」なのかもしれない。
けれど、こういう大風呂敷を広げてみせるのがフィクションの役割なんだろうとも自分は思う。
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