雷電五郎

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスの雷電五郎のレビュー・感想・評価

4.2
経営するコインランドリーの税金問題に頭を悩ませるエヴリンが何故か並行世界(マルチバース)の存亡をかけた戦いに巻き込まれていくコメディアクションヒューマンドラマ(?)です。

マルチバースという設定は珍しいものではなくなりましたが、この作品ではおかしな行動に拍車がかかるとより遠い次元の自分にアクセスできるというとてもヘンテコな設定があったこともあり最後まで楽しく観ることができました。

誰もが避けては通れない家族間の問題やストレス、何もかもがうまくいかない時他人のせいにして楽になりたがる身勝手な自分、家族が最少にして最も濃いコミュニティであればこそ、小さな苛立ちは積もり積もってゆくものです。
しかし、家族とはいえ一個の人間として己が確立している限り他人であることは間違いなく、互いの考えを理解し合うのであれば尚更対話が必要になってくる。
察してほしいと思うだけでは何も伝わらないからです。
勿論、対話すら困難な機能不全を起こした家族もあるので、すべての家族に当てはまるという訳ではありません。
ですが、エヴリンの家族はエヴリン自身を含めて全員が対話不足と言える状態でした。例え理解を得られなくとも何を考え何を思うのか、言葉にしなければ決して伝わることはないのです。
この作品では一つに「家族同士の対話」がテーマにあると思いました。

次に別の次元の自分の特技を借りるという設定です。
人生の選択の違いによって発生する枝分かれした未来。エヴリンはそれらの未来で輝かしい特技をもって注目される自分の姿に、小さなコインランドリーに収まり何の特技もない現在の自分は何も持っていない、間違った人生を選んだと思いこみます。
しかし、一度選択すれば残った選択肢には二度と戻れず、また、いかに悔やもうと過去に戻ることはできません。例え成功した未来に繋がる正解の選択肢を選んだとしても、生きている限り人生を別つ選択肢は現れ続け、何が正解であるのかは選んだ後にしか分からない。
結局のところ「あの時違う道を選んでいたら」という後悔は現状を不満に思う心から生まれるものです。では、自分の現状を不満に感じるのなら、それを解消し自分を納得させるために何か働きかけたのでしょうか?そして、脚光を浴び有名になることだけが、万人にとっての本当の幸せであるのでしょうか?
戻らない過去の選択はつまるところ、存在しない未来です。存在しない未来に希望を見出し不満な現在を蔑ろにすることで人は幸せになれるのか。
二つ目に「たらればの話は所詮たらればの幻想でしかない」が並行世界のエヴリンを見ることで鮮明に浮き上がります。

最後にあらゆる次元に存在しあらゆる経験をしたジョブ・トゥパキの存在です。
彼女は全知全能とも言える力を手にしながら母親であるエヴリンを探し続けています。「自分と同じものを見て感じられる人がいれば、新しい可能性が見つかると思っていた」と語るジョブ。それは裏を返せば、母親であるエヴリンに「自分と同じものを見てほしい」という子供の切なる希望でもあります。
あまりにも変わり果ててしまったジョブとセクシャルマイノリティであるジョイ、彼女達が求めていたのは普通とは違う自分に「それでもここにいて、自分の娘でいてほしい」と言ってくれる母親の存在でした。
家族とひとくちに言っても、文字通り血肉を分けてこそ存在する母親と子供の関係は別格の濃厚さを持ち合わせています。
だからこそ、理解してほしくて同じものを見ていたいし、死を望んでいても手を差し伸べて抱きしめてほしい。子供の切なる母への願いがジョブを通して描かれます。
そして、それはジョイだけでなく父であるゴンゴンに充分に愛されていなかったと感じているエヴリンにも通じる作りになっています。

最後に「子のあるがままを否定しない」が加わり、壮大なスケールでありながらその終着点は家族愛と隣人愛というミニマムなコミュニティの関係性に繋がっていく。

しかし、小さい家族というコミュニティの営みは、ただ家族であるというだけで維持できるものではなく、お互いに対する信頼と敬意、対話と愛情によりはじめて持続可能な群れとなるのです。怠れば破綻をきたしてしまうからこそ、大切であればある程に相互理解をするための言葉を惜しんではいけない。

徹頭徹尾、家族の話をマルチバースを使って語るという無闇に壮大な映画でした。
とても楽しかったです。

ジョブ・トゥパキの登場シーンと「小指もカンフーになる」で笑いました(笑)好きなシーンがたくさんあって鮮烈な映像体験も非常に面白かったです。素晴らしい映画でした。
雷電五郎

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