河

テオレマ 4Kスキャン版の河のレビュー・感想・評価

テオレマ 4Kスキャン版(1968年製作の映画)
3.8
欲望を抑圧して不文律的な秩序をそれぞれが守ることによって成立しているブルジョワ家庭があり、その家庭を荒地として神のような存在が現れ、その存在によってそれぞれの欲望が発露していく。神と接して欲望を自覚したによってそれぞれが既存秩序を破壊する方向に行動原理が変容させられる。
母は貞節を守る人物からあらゆる男と関係を結ぶ昼顔的な人物に変わり放浪を続け、長男は同性愛者として芸術的な秩序の破壊に向かう。父は工場や立場、プライドなど家庭を支えるものとしての持てるもの身に纏うもの全てを捨て荒野を彷徨い、長女は元から何も持っていないからか生きること自体を放棄する。母や長男が欲望を抑圧されてきた存在だとすれば、病弱な父と家庭で抑圧され続けていただろう長女はそもそも欲望がないような存在になっている。そのためか、母や長男が欲望の解放を伴う秩序の破壊を行うのに対して、父と長女は全てを放棄するしかなくなる。
それぞれのその破壊や放浪、革命には目的も行き先もなく、再び神を頼る、彷徨い続ける以外の選択肢がなく、長女と同じように生きながら死んだように痙攣し続けるか、父と同じように荒地を放浪し続けるしかない。冒頭で示されるように父が工場を労働者に手渡すことも労働者運動の破壊にしかならない。
家庭外の人物として神を招き入れて送り出す存在である召使がいて、その召使は神に触れることで預言者となる。『奇跡の丘』のキリストと同じ存在となり、同じ奇跡を起こす。その召使は労働者、破壊に向かったブルジョワ家庭全員の苦しみを背負う一方でその社会の変化を祝福するような形で涙を流す。荒地としての近代社会を表すような形で工場があり、召使が涙を流す場所はその墓場のような開発地になっている。
行き場のない物語であり、ひたすら彷徨いながら運動や行為が空虚に繰り返されていく映画になっている。そういう意味でバーグマン時代のロッセリーニの映画と共通する感覚があった。
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