しおまめ

すずめの戸締まりのしおまめのレビュー・感想・評価

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
4.0
「天気の子」から3年。
「君の名は。」から6年。
「東日本大震災」から11年。

映画監督の中でも数少ない、監督名が宣伝に大きく使われる人物の一人「新海 誠」監督最新作。
毎度のことながら公開前に地上波で前二作が放送され、その際冒頭12分が公開されたそうだが、自分はタイトルと初報のキービジュアルだけしか知らない状態で映画館へ。(映画館自体も半年ぶり)
今回の「すずめの戸締り」について、本当は色々と語りたいのだけども、
この映画に関してはこの作品そのものを語るよりも前二作とそれに関わる部分を書いた方が伝わりやすいと思った。



2016年は日本映画豊作の年と言われた。
7月に庵野監督による”シン”シリーズの最初、「シン・ゴジラ」が公開され、
10月には京都アニメーションによって映画化された「聲の形」が。
そして11月にはアニメ映画の枠を超えて日本映画の傑作とまで言われた「この世界の片隅に」が公開された年。
どれも語り継がれる作品たちだが、世間一般での知名度が一番高かったのは8月末に公開された「君の名は。」だった。
これら話題作のどれもが漫画やシリーズものといった、あらかじめ知られている作品の映画化だったものに対し、
「君の名は。」はオリジナル脚本でありながら最終的な興行収入が200億円を超えたことが凄まじいうえ、今まで知る人ぞ知る人物であった新海誠監督の名前が、この作品で一気に宣伝で大きく使われるようになるほど話題になった。
しかしながら公開されてから6年経った今、その評価は比較的苦しい。
公開当時も散々な言われようではあり、有名人らもこの凄まじい数字に疑問をもった言葉をSNS等で呟いたりして炎上することも。
そこに新海監督自らが反論したりして・・・当時は本当に様々な方向で人々の話題をさらったが、最終的によく言われる評価は、
「面白いけど記憶には残らない作品」
「気持ち悪い映画」
「被災地を愚弄している」
「意味が解らない」
などなど、数字に反して評価はそれほど高くないのが現状。

2019年。「天気の子」が公開。
前作の驚異的なヒットによってメディア露出が極端に多くなり、スポンサー企業も大量についたことで作品内で数多くの企業名が登場する。
CMも多くなり、公開時期も前作が8月末と夏休みが終わる直前だったのに比べ、今回は7月19日と比較的早い時期に。
世間も前作のあの体験をもう一度と沸き立ったが、
興業は前作よりも大幅に落ちた100億円超え。それでも素晴らしい数字なのだが、前作を見て期待した人の多くが少しばかり不満を感じるようなものになっていた。
痛ましいことに公開前日の7月18日は、あの「京都アニメーション放火殺人事件」が発生しており、
更にその年の末には今も続くコロナウイルス大流行の兆候が見え始めていた。
作品を作るうえでの環境がよくなった一方、観る側の気持ちが向かい風なものになっていたのも、この作品の数字や評価を語る上では欠かせない点だと言える。




この2作品は世界観のみならず、作品の思想についても通じ合っている節がある。
「君の名は。」の作中ではヒロインの三葉の故郷が彗星の影響で壊滅し、甚大な被害を生み出す。
それを主人公の瀧が気付き、時間のトリックで過去に遡ってその悲惨な出来事を回避しようと、当時の三葉とのラブストーリーを展開しながら奮闘する。
三葉の故郷「糸守町」に古くから伝わる伝承や組紐といった日本古来の神事を交えた、ある種オカルト的な要素をふんだんに取り入れた作品は、
新海監督が得意とする光を強調した背景美術とあいまって、作品自体を神秘的なものに彩り、ロマンチックな方向に振り切っており、そこにヤられた人は多い。
しかしながら糸守町を壊滅させた出来事に関する描写の中で明確に東日本大震災を彷彿とさせるキーワード(映画公開時は「山陸」だがDVD等では明確に「三陸」と被災地の名前が登場する)が登場しており、
「君の名は。」は2011年の東日本大震災を意識したものであると言わざる得ない。後の特集では監督は実際に被災地に足を運んでいたりする。
そう描きながら、物語では主人公の瀧とヒロインの三葉は”あの震災によって結ばれた関係”となっており、二人が失った故郷に対してそれほど引きずっていないまま、出会い、結ばれる。
それが今日もある評価の1つ「被災地を愚弄している」に繋がっていると言っていい。

けれども「君の名は。」冒頭の時間軸は、映画本編のメインで描かれた時間軸ではなく、映画終盤の”あの惨劇がなかった”時間軸である。
つまりアニメ映画というフィクションの中に存在するもうひとつのフィクションの中で”惨劇が起きた時間軸”というのを演出しており、
作品内における”現実”は惨劇が起きなかった世界である。
勿論そこには辻褄の問題やら色々と食い違う部分が多いが、少なくともこの作品における震災イメージの災害に関しては、そのものは回避しておらず、被害は無かったという形になっており、
あの惨劇を巻き起こしたことそのものを消し去ったわけではないという点は、被災をポジティブなものとして描いたものではないと言っていい。
ただし作品全体から漂うエンタメに特化した、観る側のニーズに応えた形の描写の数々によって、震災イメージを用意するにはいささか世俗過ぎた感は否めない。
最終的に「運命の出会い」「赤い糸」のラブストーリーを”あの惨劇を共有した経験”によって形成されては観る側に上手く伝わらないのは当然と言えば当然と言える。


その「君の名は。」を糧にして生まれたのが「天気の子」と言っていい。
前作で怒った人を更に怒らせる映画とまでいった、なかなかぶっ飛んだ主人公を描いた作品だが、
根底に流れているのは同じように災害の捉え方。
先ほど前作「君の名は。」は被災をポジティブなものとして描いたつもりはないと書いたが、同時に前作では糸守町を破壊しつくす彗星の光景をテレビなどで楽しんで見る人々も同時に描いている。
冒頭も「ただ美しい眺めだった」と語っており、そこには”不条理な出来事によって共有し通じ合う関係”も存在することを描いている。
(だから前作では震災イメージを描くには相応しくなかったと言える)
被災地に対する描き方ではないという批判に対して、この「天気の子」では愚直なまでに誰かのために多数を犠牲にする手段を選んでしまう。
主人公の帆高が拳銃まで使ってヒロインの陽菜に会いたいという気持ちと行動は、それまで恋愛アニメ映画を作り上げてきた新海誠監督が絶対的に信じているものそのものであり、
そのことについてを作中で「子供」とし、半ば自嘲しながらも、それでも映画を作り続けることを強固に表明した作品。
小説版のあとがきには、前作の他愛も無い自分の映画の感想を居酒屋等で耳にすることがあったという。
先に書いたように、一躍ヒットメイカーとなったことによって様々な世間の声を聞くようになったことは想像に難しくなく、大量のスポンサーならびにスタッフによる大規模な企画の中心にいることの重圧。
映画終盤の帆高は、自分がしでかしたことに対して責任を背負うかのように、一度は否定した大人達に相談したり、農業を専攻しようとし、
最後は「大丈夫だ」と語る。
この最後の言葉は、インタビュー等では大人達によって締め付けられた倫理観によって過度な責任感や生きづらさを強いている若者に対して「大丈夫だよ」と語りかけるものだと言っているが、
自分にはこの帆高の思いは、規模が大きくなりビジネスとして失敗が許されない中で映画を作らなくてはいけない新海監督自らが、世間の評判に右往左往している自分に言い聞かせたものであったと見ている。





「すずめの戸締り」はこれら要素全てに応えるものだった。
「君の名は。」で描いたことは本当に正しかったのか。
「天気の子」を描いたことで解決できただろうか。
あの震災を描くことに相応しいものであったか。
今回、ありとあらゆる部分で”新海監督の思想を形にした”作品であり、更に批判内容の主なものだったあらゆる要素が省かれている。
自ら生み出した前2作品のリベンジマッチであり、1本の映画のなかに前2作のアンサーを叩き込んだものになっていた。
そのあまりにも思想を表現する内容から、エンタメという意味では酷く平凡であり、出来という意味ではそれほど良かったとは言えない。
別の言い方をすれば、新海監督の持ち味だった毒が抜けたとも。
だが2016年、あるいは2011年、更に言えばクリエイターとしての新海誠監督のストーリーという意味では注目すべき作品であると同時に終着点。
ここから更に別の進化を遂げていく期待を持ったが、同時に昔のあの作風にはもう戻るつもりはないのかもしれないと思うと、
少し寂しさも感じる。
しおまめ

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