ヨミ

すずめの戸締まりのヨミのネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

とんでもねえ映画だと思いました。ちょっと色々危ういとは思うんですけど傑作であろうと思うし、死ぬほど面白かったです。もっかい行ってもいいな。
DolbyVISION映えしそう。


エヴァとまどマギと千尋とを混ぜ込んで新海のセカイにしたもの。誰にも似てないモンタージュ。



ポスト3.11を自らの手で語り直す、という明確な意志があったのだと思う。
『君の名は。』の災害は明確に3.11を意識したものだとされていたと記憶している。同時期に公開された『シン・ゴジラ』もまた明らかに3.11を意識した(ゴジラによって港に押し寄せる船たちは津波を想起させていた)作品だった。
あれから6年経って、新海誠がまさか、直接的に東日本大震災、そして(熊本地震の香りをさせつつ)来たる首都直下型地震について真正面から触れるとは予想だにしていなかった。
物語序盤で鳴り響く緊急地震速報の音は、いまだにぼくたちの記憶のなかの、とても嫌な部分を撫でつける。作中で警報が鳴ると、わずかにだが身体がこわばった。生徒たちの携帯電話から一斉に警報が鳴り、その音が多重になって聴こえるリアリティ。そこでまず、東日本大震災について思い出さざるを得ない。
中盤で東京が舞台となるとき、首都直下型地震を思わせる地震が発生する。そこでは明らかに縦揺れで振動が描かれていた。ここは『風立ちぬ』で関東大震災が描かれたことへの応答かもしれない。
そして福島。陸地に乗り上げていまだ放置されている船。警報の音。
新海誠が、メタファーではなくそのままに震災と取り組んだとき、どうしても共同体という問題から離れられなかったのだろう。今作は国家主義や皇室的なものとの接続についていろいろ言われているみたいだが、いまのところぼくは危険な要素、つまり国粋主義、全体主義的なものへの直接的な接続はないのではないかなと思っている。
大きな災害が発生したとき、ひとはひとりでは生きられない。どうしてもそこでは共同体の力を借りざるを得ない。もちろん、個人主義的集団の相互扶助もまた理想像のひとつとしてあるのだが、少なくともぼくたちが現在当てにしている/すべきなのは国家による救助や救済だ。それは曲げようのない事実としてある。ここにまず共同体に住むわれわれという特性がある。
そしてぼくたちが住むこの国において、神道という存在はとても厄介なものだ。神社は非常に馴染みのある施設として全国に点在している。しかしそう遠くない過去、国家神道の名のもとにぼくたちの祖先の個は否定されたこと、そして現在の神社庁(まずこういう名前を付けている時点でね)にもきな臭さがある。これは前提としてはっきり書いておかなければならない。そして同時に、父権的な国家とともに、今作のなかに「父」という存在がすっぽりと抜け落ちていたこともまた考えなければならないのだろう。
それはそれとして神道がそれなりに歴史がある宗教であるという事実は、神道をモチーフとして使うことをある程度正当化するだろう。つまり、ここで神道における祝詞の言葉「畏(かしこ)み畏み」を使うことは、即座に今作と国粋主義を結ぶものではないということ。
それよりももっと重要なことは、今作が日本中で大規模に公開されるという明らかな前提の上で、宮崎から愛媛、神戸、東京を経て福島へと流れるロード・ムーヴィーである点ではないか。ここでは郷土愛、トポスフォリアの問題がやってくる。
地方と東京という要素もまた新海にとって重要で、長野県出身の彼は、田舎である自分の地元の美しさと、そして上京を夢見る若者の目に映る東京の美しさを同時に描きたいとして『君の名は。』ではどちらも美しいものとして描いた。対して『天気の子』では東京に住む人間から見たリアリティのある東京、それは性風俗の求人トラックが大音量で走る新宿を映すところから始まる。
そして、今回の東京は非常にフラットに描かれていたと思う。他の県と並立した、ひとつの街としての東京があった。宮崎から始まって各地域がピックアップされていき、東京が現れたときに嬉しさがあった。これは紛れもなくトポスフォリアだなと感じた。新海誠は執拗に東京を描き続けてきたわけだが、前2作の成功から、他の地域への意識というのが大きくなったのかもしれない(もちろん、『秒速』にしろなんにしろ、東京以外も描いてはいるのだけれど)。
『君の名は。』で離れた2人は東京で再会を果たすが、今回は宮崎である。あのあからさまなまでに『君の名は。』を彷彿とさせるラストは、セカイ系的「えいえん」の彼方に行ってしまった相手を取り戻す、『天気の子』を経てやり直されることが大事なのだろう。

今作にも重要な民俗学的モチーフについて。
『千と千尋の神隠し』で明瞭に描かれるように川だとかは異界とうつつを分かつ線分であり、「あちらとこちら」という点では『秒速』において辿り着けない相手として線路が出てくる。
このように境界とは線分である。しかし今作でうつつと常夜の境界は「戸」を介して隣接する。戸はむしろ点であり、すずめと草太は各地に(文字通り)点在する戸を探すのである。地点=スポットを巡るのはさしずめGoogleマップに表示された目的地を示す点のようである。そして民俗学というよりむしろ、あちらとこちらをつなぐ扉をぼくたちは知っている。キー・ヴィジュアルがどうしようもなくそう見えるように、やはりどこでもドアなのだと思う。すずめはずっと常夜に囚われており、どこでもドア的に戸を介してアクセスしているのかもしれないと思う。
また、すずめの苗字である「岩戸」は、どうしても天岩戸を思い出すし、天照大神が岩戸を開けるために踊った天鈿女、アメノウズメとイワトスズメの音が近しいことは、すずめが要石を引き抜いてしまう、引き抜けてしまったことを示唆しているのではないだろうか(これはいわゆる考察的な妄想ですが)。

キャラについてだが、とりあえず2点。「今回出てくる年上の女はなんだ~?」と思ってたら叔母さんが重要人物としてせり出してくるので新海誠の癖(へき)の出し方がすごい。流石すぎ。
そして芹澤についてだが、学生証を取り出すシーンで「??????おい見たことある学生証だなおい」と思ったら弊学じゃねーか!後輩かよ芹澤。

画面がお決まりのHDR感全開でめちゃくちゃフォトジェニック。加工、フィルター感がすごい。頭上に瞬く星のきらめきと、足元に広がる草花が同時に見て取れる。
アニメだからできることですね。松下哲也の言う「シコリティ」もまた全開で、月の光輪だとかフレアとか、とにかくカメラを、それもiPhone的なカメラを通したような世界がスクリーンに映し出されている。そろそろゴーストが映る日も近いのでは。
シコリティでは、カメラワークもまた強く意識させられており、手持ち風に切り替わったり、ドローン空撮的、低い位置から上昇しつつ高速で追っていく動作。まさに浮遊するカメラ・アイだなと思う。カメラというものが、撮影機としての物質性から離れて、点在する透明な視点としてある。
しかしその一方でiPhone的インスタ的なノイズという機械的特性は美点として参照されているのが面白い。
また、映像のスペクタクル性が極めて高く、日常パートとの差もあって常にアクション映画の様相なことも飽きさせず、かつ観客をスクリーンに引きずり込む要素なんだろう。そして派手な彩色と迸る閃光がその力に拍車をかけている。

あと東京のミミズがシンウルのゼットンみがあってよかったとかダイジンが拡散されていく様子がぼくのうっすらと持っている「かわいいファシズム」意識があるなとか、白黒にカラーがある過去の描写や草太救出シーンは『オズの魔法使い』だなとか色々言いたいことはあるけど、めちゃくちゃ考えるべき、批評に耐える強度を持ったいい作品なんじゃないだろうか。とてもよかったです
ヨミ

ヨミ