「君の名は」、「天気の子」を超えた。
「君の名は」は時の距離。
「天気の子」は子供と大人の距離。
「すずめの戸締まり」は自分の闇との距離。
メタファー読みが止まらない。ミミズ、ダイジン、トビラ、イス、草太さん、などが何を表しているのか、非常に考察しがいのある作品となっている。
心の闇(ミミズ)は誰しももっていると思うが、ひょんなこと、気まぐれで、闇が表に現れること(地震)がある。闇が爆発する前に、こまめに闇と向き合い、出していった方がいいと思った。
もう記憶にはない忘れてしまった闇、いわばトラウマに思いを馳せてみる。すると、今までうまくいってなかったこと、不安、恐怖、悩み、怒りが解消されるきっかけになるかもしれない。
自分を本当に助けるのは、草太でもなく、叔母でもなく、母でもなく、自分自身なのだ。それが、この映画の本当に伝えたいことだったんだと思う。
ーーー以下ネタバレ含みますーーー
<閉じ師とは?>
災いを防いでる人。
災いが起きる前に現れる。
外向きは、ミミズが地面にぶつかって地震が起こる前に、扉を閉めることだが、もう一つの側面がある。
それは、人の闇が爆発するのを防ぐこと。
すずめが、叔母とずっと気まずい関係性が続いていたり、母の死と向き合えていないこと、モヤモヤを抱えたまま生きることを防ぐために、草太は現れたと言ってもいい気がする。
いろんな人に求められる草太を見て、羨ましい目を向ける芹沢から、草太の人間性が垣間見える。コンビニの店員にもモテモテだった。
<ダイジンとは?>
おそらくすずめの心の一部で、自由意志の象徴。
ダイジンには、良し悪しの概念がない。つまりは人間が固定概念を植え付けられる前の、まっさらな感情だ。別に地震で人がいっぱい死ぬのも、悪いことをしていると思っていないのだ。
感情、心のまま、気ままに動く存在だから、猫がモチーフになったのであろう。
すずめがダイジンを投げようとするが、投げないシーンも理解できる。好奇心で自分が逃したのが原因だから、純粋無垢な悪気のないダイジンを責めれない。
ダイジンは自由意志、感覚、感情などの象徴だ。逆に草太は論理、思考、規範、常識などの象徴とも言えるかもしれない。
<扉とは?>
ダイジン=開く心、感覚。
草太=閉じる心、論理。
と考えると、扉はその間にあるもの。感覚だけだと感情に呑まれて、闇に支配されやすい。逆に論理だけだと、窮屈で自由に生きられない。
つまり、扉はこの二つのバランスを管理するモノである。
結局この映画が言いたかったことは、扉を閉じる(闇をなくす)には、一回扉の中に入ってみる必要があるということ。
過去のトラウマをなくすには、一回当時に思いを馳せて向き合うこと。それは、怖くて辛いことかもしれないが、根本的に解決するにはそれしかないのかもしれない。おそらく扉の中に入らずに、扉を閉めるだけではすずめは新しい一歩を進めない。
すずめは無意識に扉の中に入る必要があることを理解していたのだと思う。それは草太にはない部分だ。今まで扉を閉じるだけ閉じてきたから、ダイジンにも嫌われた。悪い見方をすると、草太は自由意思を一方的に閉じる存在とも捉えることもできる。
<廃墟とは?>
扉が開く場所は、廃墟。
つまりは忘れ去られた場所=忘れ去られた過去=闇=トラウマ=心のひっかり=潜在意識に残っている記憶。
かつていた人たち、忘れ去られた人たちに思いを馳せることで、扉は閉まる。
<イスの意味>
椅子は忘れてしまった過去、いわば廃墟と同じ闇を象徴している。
イス=闇=草太を助け出すことが、自分の闇と向き合うことにつながる。草太を助けることが、自分を助けることにつながる。
そしてラスト、その椅子を幼い頃のすずめにあげる。闇を一つの出来事として捉え、決して悪いものとして描かないところが素敵だった。
向き合って、感じる。悲しみを感じる。母の死を受け止める。拒絶しない。前進するには、ちゃんと見ないといけない。見てみぬふり、無視する、扉を閉じるだけだと、そこから進めない。
<好きな場面>
大好きなシーンはすずめと叔母がパーキングエリアで言い合うシーン。
どんどんヒートアップして、胸の奥に閉めていたモヤモヤ、言いたくても言えなかったことを吐き出す。そして、お互い責任をなすりつける。すると、要石がはずれた叔母にサダイジンが現れる。心の枷がとれて、乗り移られた感じだろうか。ものすごい不気味で、怖さを覚えたシーンだ。いい意味で新海誠らしくなかった。
この言い合いがきっかけで、その後二人は心で通じ合える。そんな闇もあったけど、そればっかじゃなかったよね、楽しいこともあったよね、と自転車で二人乗りするシーンは感極まる。なかなかうまくいかなかった二人の距離が、グッと縮まり、前進していく。
なんで、あんなこと言ってしまったのか、と闇に任せて言葉を発したり、暴力に出ることは誰しも覚えがあるだろう。そんなときは、もしかしたらサダイジンに乗り移られているのかもしれない。
闇の力は非常に中毒性あり、刺激的なもので、一時的にはスッとする。この二人はその後うまくいったと思うが、注意は必要。でもずっと溜めておくこともない。お互いにあるがままの感情を伝え合えば、辛いこともあるかもしれないが、関係性は変化するのだ。
<叔母視点>
叔母視点でみると、すずめが自分の言うことを聞かずに、行動されるのが、不安だし、嫌だし、理解できないだろう。
叔母は、すずめをコントロールしようとする。いわば、執着のようなものだ。
執着は闇を生みやすい。こんだけやってあげたのだから、私の言うこと聞きなさいと言うような、相手に期待する、自分の言う通り(想像通り)の行動をしてほしい。
でもそれが、逆にストレスを生み、相手も、自分自身も苦しめるのだ。
映画のクライマックスで、叔母はすずめのことを感覚的に理解する。頭では理解できないが、心で感じたと。好きな人に会いに行きたいんだと。相手への理解は理屈だけではうまくいかない。そんな時は、心や感覚で理解することが大切なのだろう。
<すずめの成長物語>
ダイジンを好きになっていくすずめの姿は、自分の全てを愛するということを表している。自分の闇とそれに蓋をしている自分を認識して、それも含めて愛していく。
人との交流、同い年のみかん女子、スナックのママとその子供、芹沢、叔母、そして草太と関わっていくことで、自分の得意なこと、苦手なことがわかり、自信を得て、また失くす。
きっとそれが、成長であり、変化であり、人生なのだ。
<新海誠節>
・「あなたは誰?」
「君の名は」ではキュンキュンさせてくれたセリフだが、「すずめの戸締まり」では結構怖いセリフになっている。
・走る喘ぎ声
かなり大袈裟だが、JKだから許せる。
・目のアップからの「ハッ!」と驚きの声
新海作品では、これはお決まりなんだと、やっとわかった。個人的には、結構好き。
<すずめ視点でみたメタファー読み>
ミミズ=闇=重い感情
要石=ダイジン=フタ
草太=闇と向き合う心
イス=闇=忘れてしまった過去=母の死を拒絶した過去=本当はわかっていた!
叔母=現実の葛藤、モヤモヤ
芹沢=草太に助けられた存在? すずめと叔母そして草太を助けたい
<総評>
地震、3.11という重いテーマを扱いながら、ハラハラドキドキのエンタメ映画として仕上げてくる新海監督の手腕。音楽もRADの曲を抑えたことで、MV映画卒表。
「天気の子」の時に感じた編集の違和感もなく、自然で見やすかった。
次はさらにダークな作品を期待してます。
・追記
自分が親だと思っていたのは自分自身だったというオチ、そして自分を救うのは自分自身だというテーマ性は、「ハリーポッターとアズカバンの囚人」の同じ。