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すずめの戸締まりの010101010101010のネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

男女の愛が世界を救う、という相変わらずの図式(個人的には、これを小室哲哉図式と呼んでいる)。
その割に、男女の惹かれあう想いの強さと、そこにいたる過程の描かれ方がチグハグに感じられた。思わず「薄っす(うっす)…」と突っ込んでしまったほど。
人間や感情の描き方が、雑なんですよね。(ドライブインでの伯母の感情の発露・複雑さも含めて、単純…)。

たしかに、常世の世界に入って311のときの幼い自分と再び出会い、声をかけるところは、めっちゃ感動的ではあった。こうした「物語」によって、「災害で生き残ってしまった」ことを肯定できるようになる人もいるのかな、、とは思うものの…、
どうも乗りきれなかったのは、それを「日本神話=天皇制」的な物語と混淆させてしまっているからだと思う。
不条理な自然災害を、善悪の彼岸としての気まぐれな「神遊び」に結びつけ、それを古代的・呪術的な力で封じようとする、という前近代的な図式を現代に接続するのは、題材としては、めちゃくちゃ面白い。しかもロードムービーとして。
しかし、それを実際に起きた災害(東日本大震災)に結びつけてしまうのって…、災害をエンタメに回収してしまうこと以外ではなく…。ましてや、それを「キミと僕」の二人の愛(…いや、「愛」なんてタイソウな言葉で呼んでいいものかどうか疑わしいような、なりゆきの恋…)に担わせてしまい、かつ、一個人のトラウマを回復させるための「ナラティブ」に回収させてしまうのって、めちゃくちゃ暴力的なことにも感じられて…。
しかも、被災地を巡礼するというのは、まさに天皇が自身の役割としてやってきたことでもあるわけで、ふぅむ…、、、と、、、。


人間にとって手に負えない圧倒的な力、自然や神のようなものとの古代的・呪術的なやりとりの身振りってのは、「近代的恋愛観」と真逆のものだと思うんですよ。
例えば、同じ恋愛観でも、『源氏物語』における恋愛観を近代以降の恋愛観として捉えてしまうのは、とんでもない誤りだと思うのだが(それは、初期万葉集とか古今和歌集から繋がるものとして読まれなければならないだろう)、新海誠監督の感性からすれば、近代的な恋愛観に回収してしまうんだろうなぁ…、と思うと、残念でならない。
そういうのは、本当の意味での「巫の力」とは言えないのではないか。石牟礼道子さんとか、勉強し直してほしいところはある…。