「あらゆる言葉を取り出せる箱」が与えられた。
ジェンダーイクオリティ、キャンセルカルチャー、ミドルエイジクライシス、ハイカルチャーとサブカルチャー、ソーシャルケア、ミソフォニア、セクハラ、アカハラetc…なんだって取り出せる。
一義的に定められた"解"を受け取る作品ではない以上、この箱から何を取り出すのかは観客それぞれの手に委ねられている。
だからこそ気軽に語ることが憚られる。
何でも取り出せるが故に、何を取り出しても得心がいかない。いわんやこの作品の「本質」などには到底辿りつかない気分だ。
クラシック音楽は基本的に長い。
昔CD屋のバイトでクラシックコーナーを担当していた頃、バーンスタインとイスラエル・フィルによる1985年ライブの「マーラー9番」がイスラエル・フィルのレーベル「Helicon Classics」から発売された。これがクラシックファンの間ではかなり評判だったようで、当時自分が働いていた店でもかなりの枚数を売り上げた。
クラシック担当でありながらクラシック音楽に全く馴染みがなかった私は試しに一度聴いてみたものの、一部の有名なパートくらいしか耳に残らず、とにかく長いなーと思った記憶だけがある。年齢を重ねて流石に今は当時よりは聴ける"耳"になった気はするが、熱心に追いかけるほどの情熱は未だにない。クラシック音楽が持つその"長さ"は、貧しい時の中で暮らす私には少し荷が勝ちすぎる。
自分と他人の時間を支配し続けてきたリディア・ター。そして16年もの長い時間、映画監督業から離れていたトッド・フィールド。
時間芸術としての音楽、映画、ゲーム。
不可逆に流れていくこの「時間」というものに言葉で楔を打つ事には相応の責任が伴い、それこそ場合によってはキャンセルの対象になることもあるのだろう。
個人的にひとまず手探りでこの複雑な箱から取り出した言葉は、「衆愚と批評」だった。