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TAR/ターのambiorixのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.4
長編デビュー作『イン・ザ・ベッドルーム』ではサンダンス映画祭出身映画として初めてのアカデミー賞作品賞ノミネートを果たし、続く『リトル・チルドレン』でもアカデミー賞3部門にノミネートされた(しかしいずれも受賞はならず)トッド・フィールド監督16年ぶりの3作目が本作『TAR/ター』だ。この監督の作家性を無理やり抽出するならば、「いい年こいた大人の持つ弱さや脆さ」みたいなものを一貫して描き続けてきた人である、とひとまずは言えると思う。前々作は息子の命を奪われた夫婦が悲しみと向き合おうとして果たせなかったお話だし、前作はトラウマや実存的不安を抱えた登場人物たちが生の実感を得たいばかりにもがき苦しむ群像劇だった。そしてトッド・フィールド作品のもう一つの特徴、それは「何がしたい映画なのかいまいちわかりづらいこと」(笑)。いわゆるジャンル映画的な語り口を徹底的に拒否する人なので、主人公の当座の目標が存在しなかったり、物語を駆動する推進力にいまいち乏しかったりするきらいがある。それは本作『TAR/ター』においても同様で、観客は冒頭20分ぐらいの間、主人公リディア・ターの輝かしい経歴やクラシックのうんちくなどといった聴覚情報を一方的に浴びせられるはめになる。このパートで早くも退屈だなつらいなと感じてしまった人は多いと思うし、実際に俺の行った回では最初のインタビューの場面で映画館を出て行く客がいてびっくりした(笑)。
本作がユニークなのは、男性が圧倒的に優位なクラシック音楽界で成功した数少ない女性指揮者でありながら同時にレズビアンでもあるという、いわゆるポリコレ的な主人公像を描くのかと思いきや実際はその逆で、リディア・ターをアンチポリコレな人物として描いているところ。その最たるものが作中屈指の名シーン、パンジェンダーの学生マックスをリディアがロジックと自らの権力とを使ってボコボコに論破するジュリアード音楽院でのくだりだろう。差別主義的な人物だったバッハの楽曲を演奏したくない、と突っぱねるマックスに対し、リディアは「作者の人格と作品は切り離して考えるべきだ」みたいなことを滔々と述べ立て、終いにゃ「あんたはSNSに毒されすぎなのよ」といってやり込めてしまう(ちなみにここは後のキャンセルカルチャー展開の伏線にもなっている)。他にも、彼女は同性のパートナーと一緒に娘を育てているんだけども、リディアの方は育児にはほぼノータッチだし、娘をいじめた同級生には「私は父親よ」などと凄んでみせる始末。つまり何が言いたいかというと、リディアはぱっと見はエンパワメントに成功したレズビアンの女性、といういかにもポリコレ的でリベラルなペルソナを持っているのだけれど、その実よくよく中身を見てみると古き悪しき家父長制の権化でしかないのだ。彼女はいわばまさに「歴代の男性指揮者たちのごとく」振る舞うことでオーケストラを支配する。これについては、地位を上り詰めるにつれて家父長的な身振りを身につけてしまったのかもしれないし、あるいは家父長的な身振りを駆使しないとこの業界でのし上がることはできなかったのかもしれない。俺はここで『プロミシング・ヤング・ウーマン』に出てくるあの女学長を思い出した。権力を手に入れるやいなや男性優位社会の側に立って弱者や女性を抑圧しまくる女性のイメージだ。
じゃによって、過去に指導した若手指揮者クリスタの自殺という大スキャンダルを引き金にリディアが絶頂から転落していく物語の後半部は、彼女の驕り高ぶりが原因なのだ、今までやってきたパワハラやえこひいきのしっぺ返しがようやくきたのだ、と捉える人も多いと思うんだけど、俺は自業自得説にはあんまり与したくない。なぜなら、ここがトッド・フィールド脚本のうまいところでもあるのだが、リディアのとった行動にいちいち言い訳の余地が残されているからだ。この映画は人間をイチかゼロかの二元論で割り切ってしまわない。たとえば中盤に出てくる新人奏者オルガのことを思い浮かべてみよう。オルガはリディアのゴリ押しとはいえそもそも他の審査員からも満場一致で選ばれているので、実力はちゃんとあったわけだ。その一方で、オーケストラを辞めさせられてしまった副指揮者の老人や付き人のフランチェスカに関しても、きちんと話し合いの場を作って辞めてもらいたい旨を伝えている。ここには人の上に立つリーダーがいやでも直面せざるをえないジレンマがある。すなわち「人情をとるか、実力をとるか」の二択だ。世の中は義理人情だけでうまく回るようにはできておらないし、そのことをおそらくリディアは先達たちから嫌というほど思い知らされているはずなんだけど、あんまり実力主義の方に傾くと今度は「あいつは血も涙もないケダモノだ」なんといってボロクソに叩かれてしまう。この罠にまんまと引っかかってしまったのが彼女だった。クリスタの自殺については、観客に十分な情報が与えられていないので真相は闇の中というほかない(そもそも人が自殺する本当の理由なんてのはどうやっても知りようがないと俺は思う)。
紆余曲折を経てオーケストラ主席指揮者の座から転がり落ちたリディアは、一念発起し東南アジアへとおもむく。秀逸なのが、レズビアン風俗でのやり取り。オーケストラと同じ馬蹄状に並んだ女性の中にいた5番の子(マーラーの交響曲第5番を想起させる)から見つめられ、思わず建物を飛び出し路上にゲロを吐いてしまうのだが、もちろんこれは彼女が自ら行使してきた加害性を否応なしに自覚させられてしまう場面でもある。それに続く衝撃のラストシーンは、近年の映画の中でももっともヘンテコな幕切れのひとつだ。「かつてクラシック界の頂点をきわめた私がこんなアジアの場末でオタク相手にゲームの音楽を指揮しているのよ、アハハ!」みたいな自虐的かつ皮肉な解釈をとるのが順当なのかもしれないが、同じアジア人としては見ていてあんまり気持ちのよいものではないよね。欧米を追放された白人がしゃーなしでアジアに活路を求める、というのはことによるとアジア蔑視と取られてもおかしくないと思う。ちなみに、監督のトッド・フィールドが日本のあのゲームのモチーフをわざわざラストに持ってきたのは、彼と彼の子供がモンハンのファンだったかららしい(笑)。と同時に「モンスターについての作品だから」あれをチョイスしたとも言っていて、するてえとあのラストは、自身のもつ怪物性をハンターに退治してもらおうとしたのかもしれないし、あるいは、モンスターであるリディアとハンターである観客とが真っ向から対峙し、純粋に音楽を楽しむことのメタファーなのだと言えるかもしれない。そこにはどん底まで落ちぶれたリディア・ターを救うかすかな希望があるし、「過去は変えられないけど未来ならいくらでも変えられる」というトッド・フィールドの優しい眼差しがある。でも個人的にはやっぱり最初の露悪的な解釈の方が好きかなあ(笑)。
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