芸術に人生を捧げたある指揮者の栄光と転落そして再生?の物語なのかな。
いろんなふうに見ることが出る作品だと感じた。痛い話?それとも不屈の精神の話?見終わって、これどっちかな?と反芻した
リディアの歳に近い方としては、芸術は終わったな、と少し暗い気持ちになった。
でも、フランチェスカやシャロンやオルガ、あの男子学生からすると、リディアの方がもう終わってる、なのかな?
世の中の価値観が、ゲームのルールが一気に書き換えられる時がある。
第二次世界大戦後のように。リディアと老師のレストランでの会話で、ナチス呼ばわりされて葬り去られた音楽家の話があった。
そして今度はリディアの番だった。グルーミングに対する告発。少し前に世界中で吹き荒れたme too 運動を思い起こさせる。ポリティカリーコレクト、ダイバーシティ、エシカが叫ばれる世の中で、リディアの言動はアウト、という烙印を押される。
芸術と民主主義とは相入れないものだけれど、もうそういう時代ではないということか。
これを芸術は死んだと捉えるのか、単に人と時代は移り変わり、芸術も彼らと共に変化して行くと見るべきなのか。
社会の様々な分野で倫理が求められるようになり、芸術もまた倫理的に正しくないといけないという考えが広まっている。近年はそれがとても強くなっている。
ある時イタリアの友人に、日本では横綱は人格的にも立派であることが求められると話したら、不思議がっていたし、芸者を囲っていたことでたった4日で首相を辞任することになった某前首相の話をしたら、イタリアではありえないと言われた。
ドイツは倫理には厳格な印象があるから、あわれなリディアが追放されるのも、わかる。
新しい土地で再起を図ろうとするリディア。これは敗北なのがそれともチャレンジなのか。
シャープもフラットも言葉も分からなくても、音楽の奏でる感情を人は理解するものだという。
指揮者は時間を支配するのだもの、またあそこで新しい人生を奏でることができることを願うばかりだ。