マエストロは貧乏ゆすりを許せるのか?
ARTの権化であるTARがすったもんだで、ある結論に至るまでの物語。
男性的なエゴを振る舞う家父長制度の権化でレズビアンという矛盾を孕みまくったキャラクターTAR。現代のキャンセルカルチャー地獄巡りを適切な距離感で描いた本作は、自業自得なのか犠牲者なのか微妙なラインで観客に問いただしてくる。
一見 自業自得に見えるが、本質的には音楽に一心の愛を捧げるTARはエゴイストでありながら純粋な少女のように純真無垢に己の信念に身を捧げ、男性的に欲望を食い潰す。
時代が違えば当たり前に受け入れられていたものが、今では許されなくなった現代。ジャニーズ問題とも根底では繋がっていく。そもそも許してたものは何か?社会か?業界か?
TARは加害者にしか見えないが、カメラの距離感と演出が目を凝らせば別の見え方も提示する。ある部分で加害者で別の部分では犠牲者なのか。
そこの判断は観客に委ねられる。
もし、この映画を10年前に見たらどんな印象なのか
はたまた50年後に見るとどんな評価なのか?
また西洋圏ではない国の人々が見た時にいかなる感想を持つのか?
この作品の見え方は千差万別であり、万華鏡のように評価が変わるのかもしれない。
そして、それさえも罠でしかないのかも。
あなたはどう思ったのか?
そう問い正されている。
人間の本当の尊厳とは?
生きる人の権利とは?
死んだ人の想いは?
キャンセルカルチャーとは加害者の尊厳と生きる権利を剥奪するものなのか?勧善懲悪が生み出す結果は?
どこまでも考えることができる無限の問い。
いつしか時代が変わった時に、この作品はどう見えるのか?
巷で言われる幽霊のシーンは気づかなかったが、最後に出てくるオーケストラの最前列にいる人が凄まじい貧乏ゆすりをしていたことを発見した。
果たしてTARは許したのか?
それすら観客に委ねられて終わる。